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※この話はTV版をベースにしています(ベースなので、違うとこもあります)。

 

 

くだらない連中だ。

そう考えるたび、彼、六分儀ゲンドウは、自身に対しても怒りを覚えた。

自分は、まだ期待しているというのか。

この世界に。

こんな世界を放置している、人間という存在に。

あいつらは、なにも見えていない、なにも聞こえていない、なにも感じていない。

あいつらの目も、耳も、頭も、些末な事象を受け取るしか能のない、矮小なものでしかない。

物事の根幹にまで至らず、ただ、枝葉に触れるだけがせいぜいの。

そんな奴らが作り上げたのが、この世界という陳腐な代物だ。

もう、嫌というほどわかっている。

無駄なのだ。

激しく口論しようと、暴力に訴えようと、なにが変わるでもない。

なにをしたところで、結局は、ただの憂さ晴らしでしかない。

それなのに、まだ、心のどこかで望んでいる。

まだ、変えられるのではないかと。

必要なのは、もっと強大な、もっと決定的な力だ。

全てをひっくり返す。

全てを変える、絶対的な力。

しかし、そんなものが、どこにあるというのか。

そんなものを欲する自分にも、怒りを覚える。

子供じみた夢想だというのに、いつまでしがみついてるのだろう。

いつになったら、あきらめられるのか。

世界も、人間も、この程度のものなのだと。

もう、変えようがない。

変えるための力など、ありはしないのだ。

それなのに、まだ、期待を捨て切れない。

自分という存在を、他者という存在を認識するようになって以来、ゲンドウは言いようのない違和感にさいなまれ続けていた。

なぜ、誰も気づかないのか。

なぜ、不思議に思わないのか。

この世界の、あまりの理不尽さに。

理不尽を傍観している、怠惰な愚かさに。

違和感は苛立ちへと変わり、怒りに変わる。

そのぶつけどころを見出せず、これまで、無意味な衝突を繰り返してきた。

そんな日々が続き、あきらめようとしながら、それでも、あきらめる事が出来ずにいた頃、

ゲンドウに、転機が訪れる。

それは、曖昧な情報の域を出ない。

幾多とある、取るに足らないゴミの一つに過ぎないのかもしれない。

しかし、ゲンドウは、無視する事の出来ないなにかを、その情報に感じていた。

主要国の政府や名だたる大企業の多くが係わりを持つという、ある組織。

「ゼーレ」。

莫大な資金を元に、社会を裏から牛耳っている。

巨大な組織。

世界を変えるほどの、強大な力。

馬鹿馬鹿しい。

似たような都市伝説など、掃いて捨てるほどある。

そんなものに惑わされるような、間抜けではない。

しかし、

なぜか、これは他とは違うように感じられる。

数々の情報。

それらは、一見、無責任にまき散らされただけのように見える。

しかし、どこかおかしい。

まるで、意図的に混沌を操作しているかのような。

もしも、この組織が、情報にある通りなのだとしたら。

もしも、実際に存在するというのなら。

知りたい。

事実を、知りたい。

そして、かなうのなら。

たどるには、あまりに細い糸。

しかし、それでも、かける価値があるのではないか。

このまま、無意味に生きるよりは。

 

 

「マサトの道楽部屋 バージョン1.0」開設20周年記念SS

GENDOU&YUI

「Score」

 

 

西暦1999年の、ある日。

在籍する京都の大学の廊下を、ゲンドウは歩いていた。

彼は、気が向いた時にしか講義に出席しない。

しかも、めったな事では気が向かない。

その、珍しく気が向いたというのが、この日だった。

「・・・」

他に歩く者のない、ひんやりとした静けさのある廊下を歩きながら、ゲンドウは考え事をしていた。

このところ、ずっと頭を離れない、「ゼーレ」という組織について。

ゲンドウは遅々として進まぬ状況に、少なからず徒労感を覚えていた。

調べれば調べるほど、わからなくなる。

無駄足を重ねるばかりの日々。

久しぶりに大学へやって来たのも、つまりは気分転換が目的だった。

都市伝説としてなら、いくらでも、不自然なほどに、情報が集まる。

そのせいで、核心へと近づくどころか、かえって視界が霧に覆われていく。

ただそれでも、わずかだが意識から流れていかないものもある。

ただの噂と切り捨てられない、引き寄せられずにはいられない、なにかが。

これは、単なるバイアスなのだろうか。

自分自身の、力を欲するがゆえの偏った思考が、幻を見せているのか。

そう思いつつも、結局のところ、手放す気にはなれない、まだ。

なにか、あと一歩。

手がかりとなるものさえあれば・・・。

その時、

考え事をしていたせいで、ゲンドウは気づくのが遅れてしまった。

廊下の角を曲がろうとした瞬間、目の前をなにかが横切った。

(うっ)

かろうじて足を止めるゲンドウであったが、相手はまだ気づいておらず、そのままゲンドウの立つ方へと進路を変える。

ゲンドウは心の中で舌打ちをした。

女は、歩きながらノートを見ていた。

そのせいで、気づいた時は、すでにゲンドウの胸から十数センチほどの距離まで接近していた。

「あっ!」

女は驚きの声を上げると、ぶつかるまいとして、思わずゲンドウの胸に両手を当てた。

そして、次の瞬間、

「ごっ、ごめんなさあああああっ!」

語尾が妙に伸びたのは、ゲンドウから慌てて離れようとしたはずみで、大きくよろけたせいだ。

5、6歩あとずさり、なんとか転倒は避けられたものの、女の手からは、持っていたノートが消えていた。

「・・・」

ノートは、ゲンドウが持っていた。

倒れようとする女を反射的に支えようとしたが、わずかに遅く、手がつかんだのはそれだけだった。

「・・・」

なんとはなしに、ゲンドウは開かれたページに目をやる。

ページの一番上には、ドイツ語で「Frage」、つまり、「問題」と書かれてあり、そばには、赤い四角で囲まれた、数行の文と化学式がある。

そして、その下には、ノートの持ち主である女が書いたであろう、いくつもの思案の跡が、幾重にも重ねられたバツ印で消されていた。

「あ、あの・・・」

遠慮がちな声がする。

ゲンドウが顔を上げると、女が微妙な笑顔で立っていた。

「ああ」

ゲンドウがノートを手渡すと、女は礼を言い、続けて、気まずさと恥ずかしさのせいなのか、

「これ、ドイツの友達が送ってきた問題で、こういうの、よくやり取りしてるんですけど、なんか、今回は特に難しくて」

などと、弁解めいた事を言い始めた。

「そうか。考え事もいいが、歩きながらは−」

そこまで言うも、ついさっきまでの自分が思い出されて、ゲンドウは口をつぐんだ。

対して、女は

「はい、本当にすみません」

と恐縮している。

「気をつけて」

それだけを言うと、ゲンドウはその場を去ろうと歩き出した。

「・・・」

ふと、ノートの内容が頭に浮かぶ。

書かれていた問題は、相当にひねってはあったものの、ゲンドウにとって、それほど難しいものではなかった。

しかし、気になったのは、バツ印で消されていた箇所の方。

確かに、正解にはまだ遠い。

しかし、興味を引いたのは、別の点だ。

あの問題から、どうして、あのような推察が生じるのだろう。

発想が、飛躍している。

少々突飛ともいえるが、かといって、核心から大きく外れているわけでもない。

つまり、正解へのアプローチの仕方が独特なのだ。

通常、あのような連想や組み立てが出来るものだろうか。

あれが、彼女の頭から生まれたというのなら・・・。

ふとした思いつきに、ゲンドウはかすかな笑みを浮かべた。

気づくかどうかは、彼女次第。

気づかなければ、それまでの事だ。

どうせ、ただの気の迷いに過ぎない。

 

「ああ、やっちゃった・・・」

少しの間、去っていく男の後姿を見送ると、碇ユイはため息をつきながら呟いた。

友人からの問題が気になって、良くないとは思いつつ、ついつい歩きながらノートを見てしまった。

そして、ついつい夢中になってしまい、この始末。

(ごめんなさい・・・)

胸の中で言いながら、小さく頭を下げると、ユイは男とは反対方向へと歩き出そうとした。

(と、その前に)

すぐさまユイは、ノートを肩からかけていたバッグへとしまった。

手に持っていると、またついつい気になってしまう。

それでまた人とぶつかったりした日には、あまりにも迂闊だし、申し訳ないし、情けない。

(・・・でも・・・)

ユイは振り返ると、すでに遠くを歩く男へと視線を向けた。

(・・・あんなに怖そうな人なのに)

正直、相当の威圧感があった。

自分とは頭一つ分違う身長と、黒で統一された服装、そして、表情のうかがえない顔。

まるで黒い壁のようで、思わず、

(モノリス?)

と、宇宙空間を漂う高度知的生命体のイメージが頭に浮かんでしまった。

(でも・・・)

不思議と、「怖い」という感情は湧かなかった。

それに、あんなにも、静かな声で。

「・・・」

その時、

ユイの耳は、かすかな声を拾った。

(え?)

男が、口ずさんでいる。

(歌・・・?)

このメロディは、記憶にある。

確か、中学3年の頃、音楽の授業の時にリコーダーで演奏した。

あれは、そうだ、エルガーの「愛の挨拶」だ。

失礼とは思いつつ、ユイは軽い驚きに襲われた。

(あんなに怖そうな人なのに)

あまりに似つかわしくない、可愛らしくも 柔らかな旋律。

しかも、ずいぶんと唐突な。

でも、不思議と、その穏やかさが、しっくりときて。

「ふふっ」

思わず笑みをこぼすと、ユイはそのまま目的の方向へと歩き出した。

「・・・え?」

しばらく進んだところで、ユイの足が止まった。

「・・・」

聞こえてきた曲が、耳の奥で繰り返される。

廊下に立ち止まり、思考を巡らす。

「え、まさか・・・」

ユイが振り返りると、男の姿はもうなかった。

「あの人・・・」

 

 


 

 

廊下での出来事から数週間ののち、ふたりの再会は、ゲンドウが次に大学を訪れた日に起きた。

学食で、ゲンドウは定食を食べていた。

この日は、講義はあったが、気が向いていなかった。

講義に出席するためでなく、別の用で近くに来ていたので、ついでに昼食を食べに来たのだ。

「・・・」

黙々と定食を口に運ぶゲンドウ。

その異質な空気のせいか、いつもの事ではあるが、彼のテーブルには他に座る者がいない。

ただ、この日は空気の重さが違っていた。

それは、やはり、「ゼーレ」が原因だ。

その存在を知って以来、ただ時間が過ぎるばかりで、決定打となるような情報は一向に得られていない。

今日も、わざわざ遠方まで足を伸ばしたにもかかわらず、結局は無駄骨だった。

このまま帰るのもシャクだと、学食に来てはみたものの、ただ安いというだけで、特に美味いわけでもない。

と、一人で食事をするゲンドウの、テーブルを挟んだ向かいに、誰かが立った。

「あの、すみません。私の事、覚えてます?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あぁ」

「思い出していただけましたか」

晴れやかな中にも苦笑の混じる表情を浮かべ、ユイは断りを入れてから、ゲンドウの対面の席に座った。

そして、バッグからあの時のノートを取り出すと、中を開いてみせ、早速本題を切り出す。

「これ、OP12、ですね?」

ユイの言葉に、ゲンドウはかすかな笑みを浮かべた。

「気づいたか。で、そこからは?」

「はい、もちろん」

クラシックの曲の中には、出版時、楽譜に作品番号がつけられたものが数多くあり、通常、英語圏では「Op.(オーパス)」と表記される。

そして、イングランドの作曲家エドワード・ウィリアム・エルガーが書いた「愛の挨拶」の作品番号が、「Op.12」。

ユイは先を続ける。

「OP12、といえば、去年、ノーマン・ペース氏が発見した」

「そうだ」

生命の起源を探求する研究において、大きなブレイクスルーとなったのは、1990年代に発展したメタゲノム解析である。

従来のゲノム(DNAやRNAに含まれる全ての遺伝情報)解析は、生息環境から取り出し、培養する事が可能な微生物に限られており、その対象は全体のわずか10%にも満たないものであった。

しかし、より高次なメタゲノム解析により、培養を介さず、生息環境において直接DNAやRNAを抽出する事で、これまでよりもはるかに膨大な数の微生物を対象とする事が可能となった。

そして、この技術の開発に多大な貢献を果たした1人が、アメリカはコロラド大学の生物学者ノーマン・リチャード・ペースである。

1998年、ペース達研究グループは、アメリカはイエローストーン国立公園の「Obsidian Pool」と呼ばれる天然温泉において、未培養バクテリアの新たな系統群(共通の祖先から進化した生物群)を発見し、それら12群をOP1〜OP12と命名した。

とはいえ、これが「Frage」の答えなのではなく、あくまでもピースの1つに過ぎない。

ただ、いくつかのピースの中で特徴的な1つであり、周囲に置くべきピースを知る、有力な手掛かりとなる。

断片は断片と繋がり、やがて、全体を現わしていく。

ユイは自分がいかにして答えにたどり着いたか、その経緯を話し、ゲンドウにヒントをくれた礼を言った。

「でも、あんな少しの時間しか見てなかったのに、すごいです」

「たまたまだ」

「いえ、そんな。私なんて、もうずうっと悩んでたのに、すごいですよ、やっぱり」

少々興奮気味に言うユイ。

しかし、そんな彼女の様子に、ゲンドウは胸の中で苦笑した。

(よけいな事をしたようだ)

表情や言葉からは、うかがい知れない。

しかし、隠し切れずにいるものが、見えていた。

自分一人の力で解きたかったのだろう、ほんのわずか、目が「くやしい」と言っている。

確かに、とゲンドウは思う。

時間はかかっただろうが、彼女なら、自力で答えを導き出せただろう。

あの程度のヒントで、正解へとたどり着いたのだから。

その事が知れて、ゲンドウは充分に満足した。

もう、話す事はない。

「あ、私、碇ユイといいます。生物工学科の2年です」

名刺代わりのつもりか、ユイは、ノートの表紙に書かれた自分の名を見せながら言う。

続けて、

「あの」

言いかけるユイに対し、ゲンドウは、

「友達が待っているようだが」

と、離れたテーブルで、先ほどからこちらの様子をうかがっている、数名の女達を見て言った。

「あ、はい」

それが返事なのだと察し、ユイは小さく微笑みながら、おとなしく席を離れた。

無理に聞き出すというのも失礼だ。

なにより、あの、有無を言わさぬ感じ。

(でも・・・)

もしも、同じ大学の学生なら、

またいつか、名前を知る機会があるかもしれない。

「・・・」

友人達のいるテーブルへ向かうユイを数秒ほど見送ってから、ゲンドウは食事を再開した。

定食がさっきより美味く感じるのは、気のせいか。

 

碇ユイ。

なかなか面白い女だった。

俺のような男に、物怖じもせずに。

生物工学科。

俺と同じか。

・・・

面白い、か。

もしかしたら、初めてではないだろうか。

他人に対し、こんな感想を抱くのは。

碇ユイ。

・・・

碇?

いや、まさか・・・。

くそっ、なぜすぐに思い出さなかったんだ。

 

ゲンドウは、離れたテーブルに座るユイを見た。

「碇」といえば、日本有数の財閥系企業。

それだけなら、なんの興味もない。

しかし、

ゼーレと繋がりがあると噂される企業の中に、確か、「碇」の名が。

いや、それはあまりに都合が良過ぎる。

確かに、あまり見ない苗字ではあるが、だからと言って、そんな。

しかし、もしも、彼女があの碇と縁のある者だとしたら・・・。

とにかく、今は、ほんのわずかな可能性でも無視するわけにはいかない。

たとえどんなに細い糸であろうと、またしても徒労に終わろうと。

となれば、このまま距離を空けてしまうのは都合が悪い。

あんな拒絶するような真似をしてしまったが、今ならまだ、挽回出来るかもしれない。

挽回するなら、今しかない。

ゲンドウは、少しの間思案すると、テーブルに置かれていた紙ナプキンを手に取った。

 

「待たせてゴメン。さ、食べよ」

ユイは、注文した定食と友人達が待つテーブルへと戻り、椅子に座った。

その途端、好奇の目と質問がユイに投げかけられる。

「ねえ、ユイ、知り合い?」

「ん、うん、知り合いというか・・・」

言い淀むユイに対し、友人の一人が尋ねる。

「どういう人なの?」

「うん、前にちょっと、廊下でぶつかりそうになっちゃって」

「え、ま、まさか、脅されてたり?」

「なんでそうなるの、違うよ」

「あ、ごめん。でも、なんか、感じが、ほら、ねえ?」

友人は、別の一人に同意を求め、求められた方が同意する。

「うん、だって、なんかちょっと怖そう」

その言葉に、ユイは首を横に振る。

「そう見えるだけだよ。だって、ぶつかった時も静かに注意するだけだったし、それにね」

友人達に、ユイはノートの問題を見せ、これまでのやり取りを話した。

「へえ、すごいんだ。でも、頭がいいのと性格がいいのは違うけどね」

「わかってるよ、そんなの。ただ、ちょっと気になったってだけで−」

そこまで言うと、ユイはそばに立つ人影に気づき、友人達もいっせいに口をつぐんだ。

「お先に」

とだけ、ゲンドウはユイに言うと、そのまま食堂を出て行った。

「び、びっくりした・・・」

金縛りが解けたかのように、友人達は口を開き、ゲンドウについての話を再開する。

「とにかくさ、ちょっとは警戒した方がいいよ。ユイは美人だわ大金持ちだわで、狙われる要素が満載なんだから」

「だから、そんなんじゃないって・・・、あれ?」

ユイが、話を切り上げるため、定食を食べようとテーブルを見ると、いつの間にか、トレーのそばに紙ナプキンが置いてあった。

「なんだろ、これ?」

手に取って見てみると、そこには数行の問題文と、化学式が3つ。

そして、

 

  楽しみを奪ってしまったお詫びに

 

  六分儀ゲンドウ

 

「あ、ふふっ」

ユイは、紙ナプキンを両手で挟むように持つと、思わず笑みを浮かべた。

いつまでも、笑顔が収まらない。

友人達はあきれたように見ているが、それでもユイは構わなかった。

 

 


 

 

ゲンドウとユイ、ふたりの交流は、静かながらも、一歩ずつ踏みしめるような進展を続けた。

とはいえ、男女の関係として、特に目立った出来事があるわけではない。

それどころか、普段の会話は、ふたりが専攻する生物工学についての話題がほとんどで、世間話の類すらも、数える程度しか交わされる事がない。

ふたりで遠出をする事もあったが、やはりそれも、研究がらみのものだ。

「なので、良かったら、いっしょに行きません?」

「長野か」

「もし良かったら、ですけど」

「ああ、行こう」

ユイが誘ったのは、長野県北安曇郡白馬村の、白馬八方温泉。

もちろん、温泉に入るためではない。

目的は、温泉の湯が湧き出る、蛇紋岩(じゃもんがん)地帯。

生命の代謝には、水素を発生させる環境が必須とされる。

初期地球において生命がどのように代謝を可能としたのか、そのカギを握るのが、蛇紋岩だ。

この岩は、黒〜暗緑色をしており、表面が蛇の皮膚に似ているところから、その名がつけられた。

橄欖(かんらん)岩が水と反応する事で生まれ、その際、高濃度の水素ガスを発生させる。

そして、世界に数ヶ所ある蛇紋岩地帯の中で、白馬八方の蛇紋岩は、最初の生命が誕生したとされる冥王代(地球誕生から5億年間)最末期と類似した状態を保っている。

ちなみに、

これらの事実が注目されるようになるのは、この時よりも更に数年後、西暦2000年代に入って以降の事だ。

 

「他の人には言ってないんですけど」

「なんだ?」

「ゼーレって組織、知ってます?」

「・・・ああ、聞いた事はある」

「私、あそこで研究員やってるんです、2年くらい前から」

「研究員?」

「ええ、大学の友達には内緒にしてるんですけど。あ、もちろん、研究内容については、守秘義務があるから言えません。でも、一般の施設よりもかなり進んだ研究環境があるんです」

「それは、初耳だな」

「ですよね、あの組織について広まってる内容って、なんだか、うさんくさい都市伝説みたいなのばかり。だから、友達にも言えないんです、よけいな心配させちゃいそうで」

「そんな重大な事を、なぜ俺に?」

「さあ、なぜでしょうね・・・。ただなんとなく、って思っておいてください」

はにかんだように笑いながら、ユイはそっと目を伏せる。

「知ってるのは、家族と、ドイツの友達が一人。・・・あとは、ゲンドウさんだけです」

「それは光栄だな」

 

知人の域を超えない。

それこそが、ゲンドウの望む関係だった。

彼にとって、碇ユイという存在は、ゼーレへとたどる糸のようなもの。

あくまでも、彼女ではなく、彼女に繋がっているものこそを対象としている。

出会ってからわずか数ヶ月の間に、ゲンドウが得た情報の数々は、これまでのものとは比較にならない存在感を示していた。

ユイの姓とは、やはり、巨大な財閥系企業のそれであり、

「碇」とは、やはり、ゼーレと繋がりを持つものであった。

しかも、ユイ本人が、研究員としてゼーレに所属している。

すなわち、

ゲンドウにとってすべき事とは、自身の能力を、ユイを通してゼーレへと伝える事だった。

そして、それは着実に実を結ぼうとしている。

互いの学識をもって、会話を交わし、議論を戦わせる。

そんな中で、ゲンドウの有能さはユイを驚かせるに充分だった。

ユイが科学者として有能であるからこそ、この才能を埋もれさせるはずがないという、ゲンドウには確信があった。

これほどの僥倖(ぎょうこう)があろうか。

ゲンドウは、胸の中で快哉を叫ぶと同時に、奇妙な感覚にとらわれてもいた。

同じ京都の大学に在籍している彼女が、ゼーレと繋がっていた。

か細い糸だと思っていたものが、これほどの手ごたえをもたらそうとは。

あれだけ探し求めていたものが、こんなにも近くに、こんなにもあっけなく。

妄信するつもりなどないが、それでも、「運命」という言葉が脳裏にちらつく。

構わない。

「運命」であろうがなかろうが、どうでもいい。

この機会を、なんとしても、ものにしなければ。

その一心で、ゲンドウはユイとの接触を密にした。

会話を重ね、議論を重ね、己が才能を誇示していった。

しかし、

これらの交流は、やがて、ユイのみならず、ゲンドウをも驚かせる事となる。

 

白馬八方の温泉で、調査とサンプル採取を済ませると、

「せっかくだから」

と、ユイが誘い、ふたりは温泉(もちろん、混浴ではない)に入り、食事をした。

そして、

「せっかくだから」

と、ユイがみやげ物屋で友人や世話になっている教授達へのみやげを探し、ゲンドウはそれに付き合った(もちろん、ゲンドウはなにも買わない)。

あちこちと探し回るユイは、やがて、あるコーナーに目を留めた。

そこには、蛇紋岩を加工して作った、ピアスやネックレスなどのアクセサリーが置いてあった。

「これ買います。私、へび年だから」

そう言うと、ユイはアクセサリーの中からペンダント2つを手に取り、他のみやげと一緒にレジへと持って行く。

そして、清算を済ませると、ペンダントの1つをゲンドウの手に、なかば強引に渡した。

「こういうのは」

と遠慮するゲンドウだったが、ユイは

「いいじゃないですか、せっかく来た記念だし。つけなくてもいいですから、持っていてください」

と言う。

「俺はへび年じゃないぞ」

「でも、六分儀といったら蛇ですよ?」

「どういう意味だ?」

わからないといった様子のゲンドウに対し、ユイは無邪気に勝ち誇った顔で説明をする。

つまり、星座の話らしい。

六分儀座という星座があり、そのそばには、うみへび座があるのだそうだ。

少々あきれながらも、ユイの浮かべる笑顔に、ゲンドウはなにも言えず、大人しく受け取る事にした。

くだらないと思う一方で、こういったところが発想の柔軟さに結びついているのかもしれないと、ゲンドウは考える。

最初の出会いから、気づいてはいた。

彼女の、才能のきらめき。

それに触れるたび、ゲンドウは、まるでShadow Artのようだと感じていた。

一見すると、空き缶や木片、スプーンやフォークなどを、ただ乱雑に組み合わせただけのように見えるオブジェ。それが、ある一点から光を当てると、生み出された影が人や動物、乗り物といった形状を現わす。

彼女は、定型にとらわれない柔軟さを持ちながら、一方で、緻密な計算を用い、的確な位置から光を当てる。

その、視点が。

だからこそ、時には大きくまわり道をする事があるものの、着実に距離を縮め、いずれは答えへとたどり着く。

そのような思考方法を、たぶん、彼女は無自覚に行なっているのだろう。

それほどに、軽やかなのだ。

広大な空へと広げる、飛躍の翼。

大空からは、地上からは知り得ない景色が見えているのだろう。

対して、自分はどうか?

ゲンドウは考える。

彼女の思考方法については、大いに共感する。

しかし、自分はそれを意図的に行なっているに過ぎない。

自制してはいるものの、時折、偏った思考に陥る事がある。

それ自体、特に問題視するつもりはない。ただ、彼女の思考の仕方とは根本的な部分で違っていると痛感する。

そう、自由であるか否か、という点において。

彼女は、縛られていない。

彼女は、楽しんでいるのだ。

研究においても、生きるにおいても。

無論、この世界の醜さから目を逸らしているわけではない。

交わす会話や議論から、はっきりと伝わってくる。

現実を理解している、その上で、

彼女は、なおも信じている。

期待ではない、信じているのだ。

世界を、そして、人間を。

そんな彼女の姿に、時折、ゲンドウは胸の苦しさを覚えた。

まるで、なにかが刻み込まれていくような。

 

俺は、彼女のようには考えられない。

考える事が出来ない。

もしかしたら、いずれ、俺にはたどり着けないところまで、彼女は。

・・・

なんという事だ。

この俺が、他人に対して、羨望の念を抱くとは。

 

「ゲンドウさんは−」

「ちょっといいか? 前から言おうと思っていたんだが」

「え?」

「ゲンドウでいい。「さん」付けされるのは性に合わない」

「でも、年上の人を呼び捨てというのは」

「ずいぶんと常識的な事を言うんだな」

「え、私、常識ありますよ?」

「まあいい。とにかく、俺は「さん」付けされない方が気が楽だ。それだけは知っておいてくれ」

「ふふっ、はい、わかりました」

 

いつだったか、ユイはゲンドウに尋ねた事がある。

「あの時、どうしてすぐに教えてくれなかったんです?」

大学の学食で、2回目に出会った時についてだ。

名乗ったユイに対し、ゲンドウは暗に拒絶を示した。

にもかかわらず、そのすぐあとに、自分の名前を書いてユイへと渡した。

「ああ、口頭で「ろくぶんぎ」と言っても、たいていはピンと来ないからな。かといって、いちいち説明するのも面倒だ」

本当の事を言えるはずもなく、とっさにごまかすゲンドウであったが、その言葉は、ユイがこれまで感じてきた彼への印象と一致するものであった。

彼は、確かに、人間嫌いだ。

会話の中に、人というものに対する嫌悪が、しばしば顔を出す。

ただ、それでも、ユイはゲンドウから離れる気になれなかった。

ふとした瞬間、引き寄せられる。

瞳の奥、深い闇の中に、時折灯る光。

それは、小さいけれど、とても力強くて。

ユイは思う。

彼の嫌悪は、激しい怒りから生じている。

怒りは、深い悲しみから生じている。

その悲しみは、いったい、どこから来るのだろう。

そして、そんな彼が自分と交流しているのは、いったい、なにが理由なのだろう。

ユイは、人を見る目に対して、それなりの自負がある。

幼い頃より、「碇」の名は、彼女に聡明である事を求めた。

巨大な資産と社会的地位。

好むと好まざるとにかかわらず、多くの人が近づいてくる。

邪な意図を持つ者も、やはり、例外ではない。

そういう立場にあると幼くして知るのは、悲しいかな、自然の成りゆきであった。

加えて、ユイは、自分の容姿が平均を上回る事も認識している。

うぬぼれでもなんでもなく、周囲から幾度となく言われていれば、さすがに気づかないわけにはいかない。

実際の話、年頃になるに連れ、同年代の男からアプローチを受ける機会も多くなり、家族や友人からたびたび警戒を促されてきた。

良くも悪くも、自分には人を引き寄せるだけのものがあるのだと、周囲より知らされる。

ゆえに、自然とその手の気配を察知する能力は高くなり、然るべき相手に対しては、無用な衝突を生じさせる事なくかわす術も身についていった。

そして、探る眼は、ゲンドウに対しても働く事があった。

長年の習慣として、反射的に、などといった理由から始まったそれは、しかし、いつしか内容を変化させていく。

出会ってしばらくの間、ユイはゲンドウに対し、憧れに近い感情を抱いていた。

その知識と洞察力、その底知れぬ深さに。

自分には到底及ぶべくもないと、何度も驚嘆させられるとともに、いつかは少しでも近づけたらと、願った。

意見を戦わせる中で、ユイがゲンドウを驚かせた事もあり、そのたびに彼女は自分が誇らしく感じられた。

楽しかった。

これほど充実した時間は、今まで数えるほどしか存在しなかった。

なのに、

ある頃から、不満へと転じていく。

憧れが減じたわけでは、決してない。

現在においても、ゲンドウは高嶺の存在として、ユイの前にそびえ立っていた。

10年という歳の差は、これほど大きなものなのか。

いや、そうではない、年月の問題などではない。

彼が、常に、強く求め続けているからだ。

とても強く、そう、激烈とさえ表現し得るほどに。

その激しさの対象にユイが覚える嫉妬は、戸惑うほどに、みるみる大きくなっていった。

彼が、ユイ自身ではなく、別のなにかを見ている事に。

たしかに、ゲンドウはユイを認めている。

しかし、それは、あくまで彼女の能力についてだ。

科学者として認めているのであって、一個の人間としてではない。

それが、ユイには、ひどく寂しく思える。

出会ってしばらく経っても、ゲンドウはユイに対して一線を引いていた。

基本的に愛想に乏しく、必要以上のコミュニケーションを取らない。

ぞんざいなわけではない、軽んじているわけでもない。

それどころか、意外なほど細やかな面を見せる時もある。

たとえば、ふたりで道を歩く際、ごく当たり前のようにゲンドウが車道側を歩くといった行動。

これ自体、ごく一般的なマナーと言えなくもない。

これまでにも、「アピール」として同様の行動をとる男達は数多くいた。

しかし、決定的な違い。

他の男達は、態度によってユイへの思いを表現する。

実際にユイ本人への思いがあればもちろんの事、たとえ、ユイのバックボーンが目的の場合でも、やはり、表面上はユイ本人に対する関心を装うのだ。

しかし、ゲンドウにはそれがない。

彼は、あくまで儀礼的に行なっているに過ぎない。

人間嫌いだから、と、ユイは自分を納得させようとしてきた。

しかし、それももう限界に達しようとしている。

 

彼は、私の能力に興味はあっても、「碇ユイ」という人間に興味はない。

それとも、興味があるのは、もっと別のなにかなのか。

わからない。

そもそも、なぜこんな風に考えてしまうのだろう。

なんの思惑もない、ただの友達というだけの関係。

それでいいじゃないか。

私に興味があるかどうか気にするなんて、自意識過剰だ。

なのに・・・、

なぜ、考えてしまうのだろう。

そして、

なぜ、知りたいのだろう。

彼が、私を、どう思っているのか。

わからない。

気になって、仕方がない。

不思議な人。

深い闇の奥にいる人。

だからこそ、知りたくて、手がかりはないかと探してしまう。

自分について話して、なにか、返るものがないだろうかと。

 

「でも、もう少しの間、「ゲンドウさん」でいいですか?」

「時間をくれと?」

「ええ、もう少しだけ、心の準備が出来るまで」

「準備が必要なのか? ふっ、よくわからないが、好きにすればいい」

「ええ・・・、好きに」

 

今はまだ、深い闇の向こう。

ほんのわずか、おぼろげな輪郭しか見えない。

もっとあなたを見せてくれるなら、私は全てを見せるのに。

そんな事を考えてしまう自分を、どうかしてると感じながら、それでももう、どうしようもない。

ゼーレについて打ち明けたのも、それが理由だ。

そして、そう、思い当たるとすれば、これなのだ。

会話の流れで、自分がゼーレに所属していると話した時。

もちろん、行なっている研究内容など、詳しい事は話していない。

ただ、自分とゼーレに繋がりがあるとだけ。

あの時も、彼は普段の態度を崩しはしなかった。

けれど、私にはわかった

目が、いつもと違っていた。

手がかりが、見えた。

あと、もう少しだけでも、見えたなら・・・。

 

 

やがて、ゲンドウは、ユイを介し、ゼーレとの接触を果たす事となる。

 

 


 

 

「俺が欲しいのは、力だけだ」

ゲンドウは、ひとり呟いた。

我知らず、自身へと言い聞かせるように。

 

 

ユイの卒業が間近となった頃、ゲンドウは再び大学に来なくなる。

そして、頃を同じくして、学内にある噂が広がった。

碇ユイが、ゼーレという組織に所属しているという。

彼女の紹介によって、六分儀ゲンドウもゼーレの一員になったという。

そして、

ゲンドウは、ゼーレと接点を持つために、ユイに近づいたのだという。

噂が広まると、ユイに忠告をする友人達があとを絶たなかった。

そればかりか、噂はユイの家族にまで届いており、彼女への心配やゲンドウへの警戒をあらわにした。

ユイは少なからず動揺した。

誰が噂を流したのか、考えるまでもない。

しかし、どうして、そのような真似を。

真相を確かめるべく、ユイは噂の主である、ゲンドウのマンションを訪ねた。

「・・・」

互いの研究について議論を交わすため、これまでにも何度となく足を運んだ。

ここに来るのが、なによりも楽しかった。

なのに、こんな思いで尋ねる事になるなんて。

「・・・」

ドアのチャイムへと向かう指が、一瞬、止まる。

しかし、次の瞬間、力任せにボタンを押す。

「・・・」

少しの間のあと、ドアは開いた。

「ゲンドウさん・・・」

「君か」

「・・・」

いつものように、感情を表わさない顔で、ゲンドウはユイの前に立った。

「どうぞ」

来るのがわかっていたかのように、ゲンドウは普段と変わらぬ態度で、ユイを招き入れる。

部屋の様子も、これまでと変わりない。

部屋を囲むように置かれる、雑然とした本棚。

対照的に、他にはほとんど物のない、室内。

なじみの空気を味わう余裕もなく、ユイは、自分に背を向けて立つ、ゲンドウを凝視した。

「聞いたんだな」

ユイの顔を見る事なく、ゲンドウが言う。

そして、ユイが問い詰めるより前に、ゲンドウはあっけなく全てを認めた。

噂の発信源が自分であると。

そして、自分がユイに近づいた目的も、噂の通りであると。

ゼーレとの繋がりに気づいたからこそ、ユイに近づいたのだと。

「俺にとって、君はもう必要ない」

ユイへと振り返り、ゲンドウの口元が笑みを浮かべる。

すでに、ゲンドウはゼーレに籍を置いている。

たとえユイからの紹介があったとはいえ、能力のない者を置いておくほど、ゼーレも余裕があるわけではない。

「契約の時」まで、時間は限られている。

高い能力を有するのなら、出自など問うに値せず。

最高幹部達の期待を超え、ゲンドウはめきめきと頭角を現わし、ほどなくして、全幅の信頼を寄せられるまでに至った。

わずかな間でこれほどの進展が見られたのは、まぎれもなく、ゲンドウ個人の働きによる。

ゼーレにとって、ゲンドウ自身が価値ある存在となった今、ユイがなにを言ったとしても、影響など及ばない。

地位は盤石。

いずれは、巨大なプロジェクトも任されるだろう。

そう、なによりも重大な。

ゲンドウが長く望み続けた力が、手の届くところにまで。

「だから、もう、俺のような男と関わらない方がいい」

「・・・」

「君には感謝している、今までありがとう」

ゲンドウは、感情のこもらぬ声で、ユイへと告げる。

うまく笑えたつもりだった。

失望を与え、二度と近づく事のないように。

しかし、

その目論見は失敗していた。

ユイの表情は、崩れる事がなかった。

静かな表情のまま、落ち着いた声で。

「なんとなく、気づいてた。ゲンドウさんが私に近づいた、理由」

「そうか、さすがだな」

「でも、教えてほしい。今もまだ、その理由のまま、変わっていないのか」

「どういう意味だ? 変わってなど、いるわけがない。最初からゼーレだけが目的だった。そして、今も」

「だから噂を流したの? 私を、遠ざけるために」

「ああ」

「私の、あなたへの気持ちに、気づいたから・・・」

「・・・」

「でも、私から離れるのに、どうして噂なんて曖昧な手段を選んだの? あなたなら、もっと確実な方法がいくらでも思いついたでしょう」

「・・・」

ゲンドウから返る言葉はなかった。

口元に笑みを残したまま、けれど、空虚さを隠せもせずに。

沈黙が、言葉よりも多くを語る。

それを受け、対するユイは言葉を続けた。

彼の沈黙を、進むための後押しとしながら。

「あなたの行動の理由を考えて、私は、一つの仮説にたどり着いた」

単なる思い違いかもしれない。

自分に都合よく解釈しているだけなのかもしれない。

それでも構わないと、ユイは続けた。

言葉にすれば、また彼から反応を引き出せるかもしれない。

また少し、彼が見えるかもしれない。

「噂が広がれば、私の友達や家族は、私に強く忠告するでしょう。「あんな男はやめなさい」って」

「・・・」

「あなたも、広がる噂によって醸成された空気が、あなた自身の背中を押してくれると期待していたかもしれない」

「・・・」

「そして・・・、これは本当に、私の思い上がりかもしれないけど・・・」

「・・・」

「いざとなれば、それこそ「ただの噂」と、打ち消す事が出来るだろう、と」

「馬鹿な・・・」

そう言ったきり、ゲンドウは笑みを浮かべるのも忘れ、再び沈黙した。

 

彼女の言葉は、到底認められるものではない。

そんな脆弱な自分など。

俺が、ユイとの縁を断ち切る事に躊躇を感じていたと?

だから、無意識の内に、助けを求め、逃げ道を用意していたと?

まさか、冗談ではない。

なにを躊躇する必要があるというのだ。

俺にとっては、力だけが・・・。

彼女は・・・。

碇ユイという存在は・・・。

俺にとって・・・。

・・・

 

ゲンドウには受け入れられない、ユイの言葉。

しかし、ではなぜ、「違う」と言葉に出来ないのか。

ユイは、努めて笑顔を作ると、眼前の男に言う。

「ゲンドウさんにも、わからない事があるのね」

「自分にはわかっている、とでも言いたいのか?」

「ううん、そんな事ない。でも、だからこそ、知りたいの」

「・・・」

「あなたの事が、知りたい、とても」

「・・・」

「ずっと思ってた、ずっと」

ずっと、感じていた。

自分を見せようとしない、彼。

まるで、なにかを守ろうとしているかのように。

それは、彼自身の内に眠る、悲しさなのだろうか。

だから、自分は、彼に対して怖れずにいられたのだろうか。

初めて出会った時も、そして、今も。

「私の中に生まれた仮説。あなたとの日々の中で、私の心に生まれた」

「・・・」

「それが事実なのかどうか、検証したい」

今はまだ、あやふやな細い糸でしかない。

それでも、今また、一つの収穫を得た。

自分はまだ、あきらめなくていいのかもしれない、と・・・。

「・・・ゲンドウ・・・」

まるで宣言の始まりであるかのように、ユイは彼の名を呼んだ。

敬称をやめ、「ゲンドウ」と。

もっと近くへ、そのために。

「あなたは、私にとって一番難しい問題よ」

「・・・」

「でも、いつの日かきっと、解き明かせると信じてる」

「信じている」という言葉。

いかにも安っぽいと、普段のゲンドウなら一笑に付していただろう。

しかし、彼女の声、表情には、それを許さぬひたむきさがあった。

ゲンドウは、改めて思い知る。

彼女は、迷いなく、心から言える人なのだと。

「・・・」

ユイは、自らの決意を示すように、ゲンドウへと歩み寄った。

そのまま、彼の胸へと両手を当てる。

大学の廊下でぶつかりそうになった時は、ほんの一瞬触れて、すぐに離れた。

けれど、もう、離しはしない。

そのまま、両腕はゲンドウの背中に回る。

わずかの間、ゲンドウの胸に顔をうずめ、やがて、その顔を上に向ける。

彼を見つめる瞳は、宣言に対する、決意の証。

「ゲンドウ・・・」

わずかに震えながらも名を呼ぶ唇は、求めるように開く。

「・・・」

そして、ユイの唇が、ゲンドウを引き寄せていく。

「・・・」

ユイからの、ぎこちないキス。

触れながら、ゲンドウは、何度目かの、胸の痛みを覚えていた。

しるしが、また刻まれる。

彼女と出会ってから、もう、いくつものしるしが。

「・・・」

ユイは感じていた。

緊張のせいだろうか、このキスは、なんの味もしない。

けれど、今はそれでいい。

苦いのか、甘いのか。

それは、のちに振り返った時にこそ、わかるのだろう。

「・・・」

長いキスのあと、しばし見つめ合うふたり。

やがて、ゲンドウは、小さくため息をつくと、ユイに言った。

「答えが出せるかどうか、やってみるがいい」

ゲンドウの言葉に、ユイはうなずく。

「ええ、やるわ」

固い決意に、ユイの瞳は揺るがなかった。

その瞳を、ゲンドウは、しっかりと受け止めた。

 

 

「本当かね!?」

「はい、六分儀さんとお付き合いさせていただいてます」

「君があの男と並んで歩くとは」

「あら、冬月先生、あの人はとてもかわいい人なんですよ。みんな知らないだけです」

 

 


 

 

西暦2000年9月13日。

南極大陸において、巨大な爆発が起きる。

その影響はすさまじく、地軸は大きくずれ、海面は急激に上昇、あらゆる天変地異が生きるもの全てを襲った。

そして、資源やエネルギー、食料や飲料水の枯渇により、各地で紛争が生まれる。

結果、わずか1年の内に、人口は半分近くまで激減した。

言うまでもなく、これは人類最大にして最悪の悲劇だった。

そして、この悲劇を引き起こしたのは、まぎれもなく人間だ。

長き眠りについていた、人類の敵たる「使徒」。

その目覚めを遅らせるべく決行された作戦は、間違っても万全などと言えはしないが、それでも、最低限の成果は得られた。

もっと慎重に、もっと綿密に。

それが可能であったなら、無論の事、やっていた。

しかし、時間は人間の都合に合わせて流れてはくれない。

出来る範囲で、出来る限りの事をするしかない。

その結果が、あのセカンドインパクトだった。

あまりに甚大な犠牲を払いつつも、とりあえず、人類は生き延びた。

そして、生き延びるための時間を得た。

もしも、南極大陸に眠る第1使徒アダムが覚醒すれば、残りの使徒も目覚め、まだ備えが完了していない人類は、根絶やしにされていただろう。

人口が半分に減った。

いや、そうではない。

半分は残せたのだと、ゼーレの最高幹部、そして、作戦を知る者達は、自らを納得させるしかなかった。

人間は、神ではない。だからこそ、完全には遠い。

それでも、

人間は、悪魔でもない。だからこそ、互いに慈しみ、助け合える。

そうあるはずであった、しかし・・・。

セカンドインパクト時に失われた命は、その全てが自然災害を原因としているのではない。

人間が人間を殺した、その数もまた、億単位の規模にのぼっていた。

弱き心が、被害を幾重にも拡大させていく。

略奪、侵略、虐殺。

憎悪、疑心暗鬼、強欲、偏見。

涙は、なにも洗い流してはくれない。

殺し、殺され、そして、殺す。

奪い、奪われ、そして、奪う。

破壊し、破壊され、そして、破壊する。

血も、肉も、心臓も、

尊厳も、理性も、情も、

泥にまみれる。

これまで数限りなく繰り返してきたというのに、今度もまた。

しかも、これまでになく、最悪な規模で。

その事実に、碇ゲンドウは暗澹(あんたん)たる思いに沈んだ。

災厄の日より、すでに2年が経過している。

なのに、いまだ大局を見ず、目先の恐怖から逃避する事ばかりに終始している。

結局は、その程度の存在でしかないのか。

自分は、先延ばしにしていただけなのか。

人類に救う価値などない。

そんなわかり切った答え。

ずっと以前から、変わらずあったというのに。

ならば、やはり、根本から変えるしか。

そのための力を、求め続けてきた。

だからこそ、今、ゲンドウはゼーレにいる。

最高幹部達からの全幅の信頼を得、これまで、着実に地位の階段をのぼってきた。

そして遂に、ゲンドウはゼーレの核心たる計画、その進行を任されるに至る。

この時のために、どれだけ力を尽くしてきた事か。

この時を、どれだけ待ち望んでいた事か。

ゼーレの悲願たる、計画。

全貌を知っているのは、最高幹部達と一部の幹部職員、そして、計画にかかわる組織、ゲヒルンの所長である、碇ゲンドウのみ。

ユイを含む一般職員は、あくまで、使徒を迎撃するための組織であるとしか知らされていない。

しかし、真なる目的は、不完全な心を補完し、人類を新生するというものだった。

新生とは、すなわち、リセット。

儀式により発生した力、神より賜(たまわ)りし奇跡をもって、全ての魂を白紙に戻し、不足を補った完全なる状態とする事で、始まりからやり直す。

これは、ゼーレの前身たる宗教団体の教義に基づいたもの。

神に選ばれし者として、哀れな民へ浄化をもたらす。

彼らが信じる神の、導きのままに。

今度こそ、完全なる救済を。

そして、

ゲンドウは、それでも良いと思った。

誰もが、等しく、消える。

それは、新たな始まりのため。

この醜く愚かな世界が消え、今度こそ、苦しみも悲しみもない世界に。

誰の涙も流れずに済む、本来あるべき世界に。

 

そうだ・・・。

これこそが、俺の望んでいた世界。

俺は、このために、何年もの間。

・・・

 

「おかえりなさい」

帰宅すると、先に帰っていたユイがゲンドウを出迎えた。

「ああ」

寝室への廊下を歩きながら、ゲンドウはユイに尋ねる。

「シンジは?」

「さっき寝たところ。だから」

小声で言いながら、口元で人差し指を立てるユイ。

ゲンドウは無言でうなずくと、音を立てずに歩き、そっとドアを開ける。

薄明かりが照らす中を、おもちゃが転がっていないか注意して進む。

ユイが片づけているはずだが、万が一という事もある。

もし、大きな音を立てて、驚いたシンジが泣き出しでもしたら、対応に困る。

「・・・」

夫婦ふたりのベッドに挟まれる形で置かれた、小さめのベッド。

その中で安らかな寝息を立てている、小さな子供。

「・・・」

時折、ゲンドウは幻を見ているような感覚を覚える。

目の前の存在が、信じられない。

自分に、子供が。

自分が、父親になるとは。

シンジが生まれてから、1年半が過ぎようとしている。

数ヶ月前につかまり立ちが出来るようになり、ベビーベッドから子供用のシングルベッドに替えた。

頃を同じくして、いくつかの言葉も話せるようになった。

順調に成長している。

シンジも、そして、母としてのユイも。

自分だけが、いまだに慣れない。

屈託のない笑顔で「パパ」と呼ばれると、どう反応して良いかわからない。

こうして眠っていれば、近づく事も平気なのだが。

「・・・」

シンジを見つめるゲンドウの隣に、寄り添うようにユイが立つ。

「かわいい・・・」

そのかすかな声に、ゲンドウはユイを見た。

今の言葉はシンジについて言ったのだろうが、ゲンドウは、なぜだか自分が言われたような気がした。

ユイが、ゲンドウの方を向き、そっと囁く。

「ね、触ってみて」

シンジの頬に触れるよう促す。

「起こしたらまずいだろう」

遠慮するゲンドウに対し、ユイは、

「そっと触れば大丈夫よ、ほら」

そう言うと、ゲンドウの手を取り、ゆっくりとシンジへと導いた。

ユイの手が重なる指で、シンジの頬へと触れる。

「ほら、シンジ、パパですよ」

喜びを含んだ囁きを、シンジへと送るユイ。

そして、喜びに満ちた瞳を、ゲンドウへと向ける。

「・・・」

ゲンドウは、指から伝わる存在を感じていた。

柔らかい。

こんなにも、儚げで。

それでいて、こんなにも、生命力にあふれている。

矛盾に満ちた存在。

生きているとは、こういう事なのか。

「・・・」

生命。

生きるもの。

生きている・・・。

安らかに眠る息子を見、柔らかな笑顔の妻を見る。

彼女の手は夫であるゲンドウの手と息子であるシンジの頬を繋いでいる。

重なる手と頬に、通うぬくもり。

不意に、シンジが寝返りを打った。

ゲンドウは指を引っ込め、そのままシンジから手を離す。

ユイの手も、ゲンドウの手に重なったままシンジから離れ、しかし、ゲンドウの手から離れはしなかった。

「・・・」

ユイの望むままに、ゲンドウは彼女を見つめながら、その手を包むように握り返す。

そして、寄り添い合いながら、ふたりの息子を見つめる。

「・・・」

ふと、ゲンドウの脳裏をよぎる、ゼーレの計画。

ユイは、知らない。

無論、シンジも。

知らない方が幸せなのだ。

セカンドインパクトがむき出しにした、人間の醜悪さ。

それらが、世界に地獄を現出させた。

人類は、変わらなければならない。

そして、ようやく、始まろうとしている。

この機会を、逃すわけにはいかない。

なのに・・・。

「・・・」

ユイやシンジがもたらした、胸の痛み。

刻まれた、いくつものしるし。

「・・・」

馬鹿な。

いったい、なにを迷っているのか。

ずっと望んできたではないか。

このために、長年に渡って、全力を傾けてきた。

それが、ようやく現実となるのだ。

これまで望んできたもの。

これまで積み上げてきたもの。

これまで、積み上げてきた・・・。

「行きましょう、そろそろ」

部屋を出ようと促すユイに、

「ああ」

と、ゲンドウはおぼろげな笑みとともに答える。

そんな彼の顔を、ユイはそっと見つめていた。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西暦2004年6月18日。

エヴァンゲリオン初号機、第一回接触実験。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

6月19日。

日付が変わり、空は白さが増し、星が消えようとしている。

それまでの喧騒は、今や、重苦しい静寂に変わっている。

実験の結果、

被験者、碇ユイは、エントリープラグから消失した。

原因は不明。

調査の結果、初号機のコアから、それまで確認出来なかった精神エネルギーの波動が確認された。

その波動は、パターン分析により、碇ユイのものと確認された。

肉体は量子状態と化し、魂はコアと融合。

わかったのは、それだけだった。

救出作業が夜を徹して行なわれたにもかかわらず、なんら成果は得られなかった。

万策尽き、現実を受け入れるしかないと知り、ゲンドウは、全身の力が抜けていくのを感じた。

所長室へと戻り、身を投げるように椅子へと座る。

ここまでどうやって戻ってこれたのか、覚えがない。

まるで半身が削り取られたかのように、凍えるような空虚感に襲われている。

ゲンドウは、横に立つ男の存在にも気づいていなかった。

冬月コウゾウ。

かつては京都の大学に形而上生物学助教授として在籍し、ユイやゲンドウとも交流があった。

セカンドインパクト発生後は、モグリの医者をしながら、ゼーレの暗躍を暴こうと動いていた。

そして、ゲンドウに事の真相を追求した際、エヴァンゲリオン、使徒、いずれ訪れる決戦について告げられる。

この時、ゲンドウはゼーレの計画を隠し、実際とは異なる「計画」を話すと、コウゾウをゼーレに誘った。

この世界に生きる人々を守るための、人類を前へと進めるためのものだと、ゲンドウは言った。

その言葉が彼の本心であるのか、コウゾウにはまだわからない。

しかし、コウゾウはゼーレに所属し、今も、ゲンドウの隣に立っている。

ゲンドウの補佐として、

そして、

ユイの協力者として。

「・・・」

コウゾウは、ゲンドウの意識が次なる衝撃を受け入れられるようになるまで、ひたすらに待っていた。

それは、彼自身が、言葉にするために必要とした時間でもあった。

「碇・・・」

やがて、ゆっくりと呼びかける。

ゲンドウに動きはなく、それでも、声は届いていると信じて、コウゾウは話を始めた。

その内容は、ゲンドウを驚愕させ、さらなる奈落へ突き落とすのに充分だった。

「ユイ君は、ゼーレの計画、その真の目的を知っていた」

ゲンドウは、我が耳を疑った。

ユイ達一般職員には極秘とされていたはず。

もちろん、ゲンドウは彼女に教えてなどいない。

なにより、コウゾウも知らないはずなのだ、それなのに。

「聞け、碇」

コウゾウは、真相を告げた。

彼が知っていたのは、ゼーレに入るよりも以前に、ユイによって知らされたからだ。

彼女は、自らゼーレの秘密を探っていた。

コウゾウは、ゲンドウから「計画」について聞かされた、その数日後に、ユイから力を貸してほしいと依頼を受けた。

そして、ゼーレの真の目的を知り、阻止するために動く事を決意する。

ゼーレに入ったのも、つまりは、そのためだ。

話を区切り、コウゾウは、ゲンドウに尋ねた。

「なぜ彼女が調べようと思ったのか、わかるか?」

「・・・」

顔を上げるも、言葉がないままのゲンドウに対し、コウゾウは怒りと悲しみが混じった表情でつぶやく。

「お前は、なにも見ていなかったんだな」

そして、強めの口調でゲンドウへと告げる。

「彼女に気づかせたのは、碇、お前だ」

「・・・俺が?」

「そうだ」

コウゾウは、ゲンドウを見据えながら言った。

「ここの所長になったのと同時期に、お前の様子に異変が起きたと、彼女は言っていた。多分、お前が計画について知らされた頃だろう」

「・・・」

「彼女は、お前の変化の原因がゼーレにあると気づき、独自に調べる事にした」

「・・・」

「彼女は、お前の変化に、気づいた」

「・・・」

「ユイ君は、お前を見ていたんだ、いつも」

呆然自失となったゲンドウに対し、コウゾウは、さらに続ける。

ゼーレの計画。

それは、人類の新生。

魂を白紙に戻し、新たにやり直す。

全ての人々の心を、消し去って。

許されるべきではない。

そんな事は、絶対にさせない。

ユイは、そのための策を、コウゾウに打ち明けた。

人類の敵たる使徒を全て倒したのち、それより先はゼーレの自由にさせないよう、計画の要であるエヴァンゲリヲン初号機を、この手に掌握する。

コアにユイのパーソナルデータを刷り込み、彼女だけが動かせるようにする。

そのための作業を、ユイは、第一次接触実験において実行したのだ。

守らなければ。

人々の心を。

愛する人達の、ゲンドウとシンジの、心を。

ひたすらに、その一心で。

無論、計画の阻止が完了するまで、全ては秘密裏に行なわなければならなかった。最高幹部達に気づかれれば、どのような手段を取ってくるかしれない。

事前のプランは、慎重の上にも慎重に、細密を極めて練り上げられていった。

成功に対し、彼女も、かなりの勝算があったはずだ。

でなければ、我が子を実験の場になど連れて来なかっただろう。

だが、

あってはならない事故が起きた。

あるいは、事故などではなく、なんらかの意思によるものなのか・・・。

その結果、彼女は・・・。

「くっ!」

弾けるように、ゲンドウはコウゾウにつかみかかった。

襟元が裂けるほどの勢いで締め上げ、ゲンドウはコウゾウを問い詰めた。

なぜ黙っていた、なぜ止めなかった。

しかし、

ゲンドウの激しさとは対照的に、コウゾウは冷ややかな視線を眼前の男に向けた。

「それがわからぬ貴様でもあるまい?」

コウゾウはいつものように静かな口調で、しかし、目の奥には激しい炎を宿しながら言った。

その瞬間、冷水を浴びせられたように、ゲンドウは硬直した。

襟首をつかんでいた手は、糸が切れたように、力なく下へと落ちる。

 

「なぜ黙っていた」?

それを俺が言えるのか?

ゼーレの協力者である、俺が。

冬月を、ユイを、欺いてきた俺が。

真実を明かそうとしない相手に、なにを言えと。

心を閉ざしている男に、なにを言えというのだ。

「なぜ止めなかった」?

わかっているはずだ。

彼女は止められない。

彼女は、自分が信じた道を、気丈な目で見据え、実行する。

この世界の、人類の未来を、確かに信じて。

そうだ、彼女はそういう人だ。

そして、

彼女にそうさせてしまったのは、まぎれもなく俺なのだ。

俺が・・・、ユイを・・・。

 

ゲンドウは後ずさり、椅子へと落ちる。

そのまま、身動きも出来ずに、虚空を見つめる。

「・・・」

コウゾウは、これほどまで感情をあらわにするゲンドウを、今まで見た事がなかった。

驚くと同時に、一方で、安堵する。

もしも、ゲンドウの様子が変わらずにいたら、

もしも、ユイを失った事に、なにも感じていなかったら、

コウゾウは、この男を殺していただろう。

ユイに協力するために、ゼーレの計画を食い止めるために、彼はここにいる。

果たして、ゲンドウは、どちらを選ぶのか。

ゼーレの計画か、彼がかつて語った「計画」か。

もしも、前者を選ぶのなら、どんな手を使おうとも・・・。

しかし、コウゾウは思う。

案ずる必要はないようだ。

今の彼の姿は、彼の内にあるものを、偽りなく示している。

なにより、

(まったく、厄介な話だな・・・)

彼女を救えるとしたら、それが出来るのは、この男しかないのだ。

長い沈黙ののち、コウゾウはゲンドウに語りかける。

「碇・・・、お前には、まだ出来る事があるんじゃないのか?」

それだけを言うと、コウゾウは所長室を出て行った。

これより先は、ゲンドウが自分で決めなければならない。

彼が己自身と向き合う事でしか、本当の答えは。

「・・・」

ゲンドウは、物音ひとつしない部屋に、ひとり残される。

頭の中で、コウゾウの言葉が何度も繰り返される。

「お前には、まだ出来る事があるんじゃないのか?」

 

俺に、なにが出来る。

俺に出来る事。

俺がすべき事。

かつて冬月に語った「計画」。

それは、リセットではなく、人類のさらなる進化。

使徒を全て倒し、「生命の実」と「知恵の実」の両方を手中に収める事で、神に等しい力を持つ。

その力を用いて、欠けた心を補完する事で、「ヒト」という種は完成された生命体として前へ進めるようになる。

だから、そのために力を貸して欲しいと、あの時、俺は冬月に告げた。

しかし、これは机上のものに過ぎない。

片腕となる彼を引き入れるため、とっさに口をついて出たに過ぎなかった。

ゼーレの計画とは異なる「計画」。

実現は、不可能ではない。

しかし、成し遂げるには、いくつもの厚い壁を打ち破らなければならない。

想像を絶する困難が待ち受けるだろう。

あらゆる手を尽くし、それでも、一か八かの賭けでしかない。

しかし、

ユイは、人々によって紡がれる、明るい未来を信じていた。

彼女の願った世界。

人の力が築き上げる、輝ける未来。

それを実現するために、人類を補完する。

エヴァンゲリオン初号機に神に等しい力を宿らせ、人間がその力を掌握する。

ゼーレの最高幹部達にとっては、この上ない禁忌。

神を裏切り、人間が神となる。

そのような企てを、悟られるわけにはいかない。

ゼーレの好きにはさせない、しかし、ゼーレの力なくして、こちらの「計画」も成立しない。

彼らの力を利用するため、疑いをもたれぬよう、欺いていかなければならない。

彼らに従うふりをし、彼らの計画を進めながら、裏ではこちらの「計画」も並行して進めていく。

そして、最後の一手で、逆転する。

生半可な覚悟では、実行には移せない。

自分の全てをかけて挑まなければ。

ユイの願いを、叶えるために。

・・・

違う。

違う、違う、違う。

笑わせるな。

この期に及んで、ぐだぐだときれいごとを。

俺は、まぎれもなく人でなしだ。

弱くてちっぽけで、愚劣な人間でしかない。

結局、自分の都合でしか動けない。

他人を、自分の都合で利用する事しか出来ない。

俺はただ、自分の望みをかなえたいだけだ。

ゼーレを裏切るのも、神に等しい力を得るのも。

俺は、

俺は、どうしても、ユイをあきらめられない。

彼女は、まだ生きている。

コアの中で、魂は生きている。

ならば、俺は、彼女を取り戻したい。

どうしても、もう一度、ユイに会いたい。

そのためには、どんな事でもしよう。

「計画」を成し遂げるためなら、全てを捨てよう。

自分を犠牲にする事をいとわず、他者を犠牲にする事をいとわず。

全てを利用し、全てを犠牲にする。

・・・

だから・・・、シンジ・・・。

俺は、お前と一緒にはいられない。

俺は、お前よりユイを選んだ。

必要とあれば、お前まで生贄に捧げるだろう。

そこまでの覚悟がなければ、「計画」は成功しない。

しかし、

お前といれば、きっと俺は、決意が揺らいでしまう。

 

「パパ」

 

そう呼ばれる資格など、俺にはない。

ユイが消え、お前が母を求めて泣いていた時、俺は、なにも出来なかった。

自分自身が受けた衝撃に翻弄されるばかりで、

お前の涙を、受け止めてやる事すら出来なかった。

俺は、その程度の男なのだ。

あれほど醜いと感じ、憎んでいた人間達と、結局は、なにも変わりなかった。

いや、俺こそが、誰よりも弱い人間だった。

ユイ・・・。

俺は、お前が愛した息子を、裏切り、捨てる。

「計画」を、成功させるために。

俺自身の、望みのために。

ユイ・・・、シンジ・・・。

すまない・・・。

 

 

「・・・ゲンドウ・・・」

「あなたは、私にとって一番難しい問題よ」

「でも、いつの日かきっと、解き明かせると信じてる」

 

 

君は、解き明かす事が出来たのだろうか。

いや、

解き明かすべきは、俺自身だった。

俺の、ユイへの想い、シンジへの想い。

その答えを、君は教えてくれた。

こんな、かたちで。

俺が、もっと早く気づいてさえいれば・・・。

 

ゲンドウは、椅子から崩れ落ち、床へと転がった。

体を支える力はない。

赤子のように丸くなり、ひたすらにゲンドウは慟哭した。

ただ激しく、ただ感情のままに、嗚咽の叫びをあげた。

一滴の血も、一滴の涙も、残さず絞り出すように。

「計画」を実行するべく、迷いの全てを捨てるために。

そして、それでも、

今、この時だけは、と・・・。

息を吸う間も惜しみ、胸の中にある悲しみを吐き出す。

言葉にならない声で、ゲンドウは、ユイを、シンジを呼んだ。

ユイを想い、シンジを想う。

シンジに詫び、ユイに詫びる。

返る声はない。

部屋に響く音は、ただ、ゲンドウが発するものばかり。

聞くものはいない。

いや、いるとするのであれば、

机の引き出しにしまわれている、蛇紋岩のペンダントだけが。

ゲンドウは、手で胸を押さえた。

激しい痛みが、胸の奥で鳴り響く。

ユイとシンジ、ふたりとの出会いから、これまで刻まれてきた、いくつものしるし。

それら一つ一つが連なり、旋律としてあふれ出る。

胸から湧き上がり、それは、いつまでも続いた。

ゲンドウの口から、旋律が、響き続けていた。

 

 


 

 

エヴァンゲリオン初号機、第一回接触実験の事故から1週間後、

碇ゲンドウは、人類補完計画の進行を、委員会議長キール・ローレンツに提唱する。

 

あの日の所長室を最後に、ゲンドウが涙を流す事はなかった。

激情の旋律が刻まれた曲譜は、胸の奥深く、しまい込まれる。

もう、迷いはない。

ただひたすらに、「計画」を進めるべく、動くのみ。

 

俺の中に刻まれたしるし、その一つ一つ。

今は遠くに、しかし、忘れはしない。

たとえ、人である事を捨てても、

たとえ、地獄へと堕ち、業火に焼かれようと、

俺の中で、決して消える事はない。

そして、

自分がすべき事のために、今、俺はここにいる。

見つけた答えを、実証するために。

君は正しかったと、伝えるために。

 

 

「Score」 終わり

 


 

後書き

 

さて、当サイト開設20周年記念という事で、「Score」です。
Scoreには「
20の集まり」という意味があり、つまり、1ダース(12の集まり)の上位バージョンです。
また、他にも、
楽譜
刻んで印をつける
(The〜で)真実や真相
といった意味もあります。
ちなみに、楽譜といえば音符ですが、こちらの単語は「note」で、他の意味としては、
メモ、覚え書き
短く簡単な手紙
があります。
そして、「note」の語源はラテン語の「nota」で、「印」という意味です。
ちなみのちなみに、ユイが持っていたノート、あれは英語では「notebook」であって、それ自体は「note」じゃありません。
つまり、ノートのページに書かれていた覚え書き、そっちが「note」という事で。

ゲンドウが廊下で口ずさんだ、「愛の挨拶」について。
この曲の作者であるエルガーは、クラシック界でも有名な愛妻家です。
妻である、キャロライン・アリス・エルガー(旧姓ロバーツ)は、曾祖父が教会学校の創始者、叔父が英領インド陸軍大将、父親が陸軍少佐という名家の生まれで、エルガーよりも8歳年上でした。
また、文学の才能があり、数冊の詩歌や散文を出版しています。
一方、エルガーはというと、まだ芽の出ていない一介の音楽家に過ぎず、身分や宗教の違いから、アリスの家族に激しく結婚を反対されます。
結果、彼女は勘当されてしまうのですが、揺るぎない想いの末に、ふたりは結ばれます。
そして、エルガーが婚約に際してアリスへと送った曲が、「愛の挨拶」なのです。
彼女の支えがなければ、エルガーの音楽家としての成功はありませんでした。
しかし、アリスは、病気により72歳で亡くなってしまいます。
エルガーの悲しみは深く、創作活動も途絶えてしまい、再び曲を書くようになるまで3年の時間を費やす事となります。
というわけで、「愛の挨拶」を選んだのは、これが理由であって、タイトルから選んだというわけではありません(それだと、あまりに直球だし)。

ゲンドウがユイの才能についてたとえた、「Shadow Art」について。
これは言葉だけだとピンとこないかもなので、画像検索していただければ、いろいろな作品が見られます。
で、その時に「シャドーアート」や「シャドウアート」で検索すると、なにやら別のもの(絵をパーツごとに重ねて、立体的に見せる作品)が出てくるので、要注意です。
つまり、別にカッコつけたくて英語で書いたんじゃないよという事で。

最後に、蛇紋岩、というか、水素について。
蛇紋岩が水素ガスを発生させ、それが初期生命の代謝に関係していた可能性がある、と本編で書きましたが、
なんと、まさに本編を書いている最中(6月17日)に、
JAXAの探査機「はやぶさ2」が小惑星「リュウグウ」で採取した砂から、水素原子と有機物が見つかったと発表がありました。
もしかしたら、生命の起源を解明する手がかりになるかもしれないという事で、なんつうシンクロニシティだ!って話です。

 


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