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「The Hermit」 第1話に戻る  第2話に戻る  第3話に戻る  第4話に戻る  第5話に戻る  第6話に戻る  


 

西暦1959年より始まったパイオニア計画を経て、アメリカ航空宇宙局「NASA」はボイジャー計画を開始する。

目的は、地球よりも太陽から遠い公転軌道を描く、木星や土星などの「外惑星」、さらには、太陽系外の調査。

そして、パイオニア計画より引き継いだ、地球外知的生命体とのコンタクト。

惑星探査機パイオニア10号・11号には、知的生命体へ向けてのメッセージとして、太陽系の惑星配置や人間の男女の姿など、人類と周辺環境についての情報を記した金属板が搭載されていた。

そして、続くボイジャー1号・2号には、百十数枚の画像と、自然の音や動物の鳴き声、音楽や各国の挨拶などが記録された、銅板に金メッキのレコード。

これだけではない。

ボイジャーには、他に、一般には公開されていない搭載物と目的が存在していた。

これらを秘密裏にNASAへと託したのは、ゼーレ。

組織の基盤をなす神話において、造物主たる原型のリリスに「知恵の実」のいくらかを奪われた人間達。彼らが、それでも残る知恵と授かりし「光」を駆使し、どれほどの進展を成し遂げたのか、真なる父、至高神へと示す儀式として。

加えて、ゼーレに資金を提供している政府や企業へ向けた、意気軒昂を旨とするイベントとしての役割もあった。

ゼーレの目論む計画。

協力者達が、その真の目的を知るはずもない。

自分達の魂を白紙に戻すためだとわかれば、協力どころの話ではないだろう。

もはや、手段を選んでいる場合ではない。

すでに、膨大な時間を流れるに任せてきた。

ゼーレが第1使徒アダムを発見したのは、紀元11世紀の後半。

実物をその目で見たというのではない。彼らが死海文書・裏死海文書の「原本」を手中に収めてから、長い年月をかけて解析を進めた結果、南極大陸は氷の大地深くに存在するのを、脳内に届くイメージとして見たのだ。

しかし、当時の技術では、氷中の巨大なアダムを掘り出すのはおろか、大陸に近づく事すらままならなかった。

なにより、「生命の種」を制御するためのセキュリティ、ロンギヌスの槍も、場所の特定は出来ているのだが、発掘には至っていなかった。

うかつにアダムを目覚めさせるなどの愚行は、断じて許されるものではない。

そのため、資金の獲得や技術研究など、可能な範囲で作業を進めてはいたものの、具体的な始動のめどが立つのに、20世紀半ばまで待たざるを得なかったのである。

アダムの発掘。

アダム以上に急がれる、ロンギヌスの槍の発掘。

始まりを遅らせるための、アダムの卵還元化。

それでもいずれは訪れる、使徒襲来に対する備え。

やらなければならない事は星の数ほどあり、時間も金も、どれだけあろうと万全には遠い。

計画推進のため、ゼーレにとっては、より多くの資金を集める事が急務であった。

そこで、協力者を募る表向きの「目的」として、虚実を交えた情報を提示する。

来るべき使徒襲来を知らしめる、死海文書と裏死海文書の「写本」を。

そして、使徒の実在を証明する、南極大陸に眠りしアダムを。

その巨大な姿は、ぶ厚い氷の上からであっても、見た者に有無を言わさぬ衝撃を刻みつけた。

圧倒たる脅威、逃れ得ぬ危機を目の当たりにして、政府や企業のトップ達は思考を停止させた。

ゼーレの言葉に疑いを抱く余地すら持てなくなり、ゆえに、彼らは信じた。

ゼーレの吐いた甘言を、警戒なく受け入れた。

甘言。

そう、恐怖という弛緩においてこそ、真実味をおびる夢想だ。

人類を守るための策はある。

人類をはるかにしのぐ存在、至高神よりもたらされた、力が。

そして、

使徒を全て倒し、最終戦争に勝利したあかつきには、人々を救いし「神の戦士」と彼らを支えし者達は、「真なるエデン」へと招かれ、至高神の庇護のもと、完全なる安住を約束される、と、ゼーレは告げた。

これこそが、協力者達の背中を押す、強力な一手。

滅亡の恐怖が間近にある中、それはひときわ魅惑的にきらめいた。

もちろん、準備が整い、事が具体的に動き出すのは、まだ数十年先の話。

時の到来を待つには齢を重ね過ぎた者が、政府や企業のトップともなれば特に、数多く存在する。

しかし、この事実すらも、ゼーレにとっては好都合であった。

約束の日を迎えるに足る、延命の技術はすでに確立している。

最高幹部達は、自らも活用している技術を無償で提供する事により、協力者達の信頼をより深いものとした。

ボイジャー計画もまた、ゼーレへの忠義と「約束」への期待を新たにするという意図のもとに実行された。

2機の惑星探査機を用いて運んだのは、彼らが偉大なる父の正統な嫡子、光持つ者である事の証。

自身の内なる光を至高神へと示す、浄化された遺伝子を内包したもの。

すなわち、「唾液」である。

キリスト教では血が命や魂を象徴するものであるのに対し、ゼーレの前身である宗教団体においては、唾液こそが神の奇跡を示すものと考えられてきた。

ゼーレの最高幹部達も、身体のほとんどを機械化していながら、唾液を出す腺、すなわち、大唾液腺(耳下腺、顎下腺、舌下腺)と、唇、頬、舌などに散在する小唾液腺は、オリジナルを保持するよう医療スタッフに厳命しているほどであった。

血は、出来損ないの神、原型のリリスによって作られた肉体から流れ出る、不浄なもの。

しかし、人間のアダムとリリスが、エデンにおいて至高神より授かりし実を食べた際、放たれる光によって、それが通る道のみが完全に清められたと、彼らの神話には記されている。

原型リリスによって「知恵の実」のいくらかを奪われてからも、人が増えて光が分散、小さくなっていく中でも、胸や喉、そして、口だけは、汚濁の難より逃れ得た、と。

さらに、唾液は常に湧いて出るものである事から、彼らの神話や教義などの文献において、「永遠」の象徴として記述された個所がいくつも存在する。

ゆえに、唾液は神聖なものとされ、ボイジャー計画においても、至高神へと自己を示す「印」として用いられたのだ。

かくして、ゼーレの最高幹部や政府・企業のトップ、加えて、トップの関係者から無作為に選ばれた者達、計数百名分の唾液が採取されると、ボイジャーの2機に分かれ、宇宙へと飛び立った。

この年、1977年。

8月20日に2号が、遅れて9月5日に1号が打ち上げられる。

そして、

さかのぼって、同年3月30日。

協力者のとある財閥系企業、その一族に連なる者として、碇ユイは誕生する。

 

 

伸ばすよ 2016年!記念SS

「The Hermit」 第7話 〜外伝〜

 

 

「ねえ、ユイ?」

「・・・ん?」

「どうしたの、急にぼうっとしたりして?」

「あぁ、ううん、なんでもない」

我に返ったユイは、残る未練を振り払い、呼びかけてきた友人へと答える。

すると、もう一人の友人がユイに言った。

「最近、時々そうなるわよね。なんか、心がどっかに飛んでっちゃうっていうか」

「え、そうなの? もしかして悩んでる事とかあるの?」

驚いた様子で尋ねる友人に、ユイは片足を軸に体を回転させながら答えた。

「別にそんなんじゃないのよ。ホラ、この通り、心身ともに健康よ、私」

「まあ、ユイが心配事なんて、ちょっと想像出来ないけどね」

「あら、そういうコト言うのかしら?」

「だって、根っからポジティブじゃない、あなたってば」

「でも、本当に、なにか悩んでる事があるんなら言ってね?」

「うん、ありがとう。やっぱり、持つべきものは「優しい」友達ね」

「あら、これって私だけ薄情者パターン? もちろん私も力になるわ。いいのよ遠慮しなくても、親友ってそういうものでしょ?」

「ふ〜ん? まあ、その気持ちだけは受け取っておくわ」

二人の友人に対し、明るく笑い声を向けるユイ。

そして、学園からの道を歩きながら、ユイは続ける。

「じゃあ、どうする? ioioでイイわよね?」

「うん、いい色のがあるといいけど」

「あそこなら大抵のものは揃ってるんじゃない?」

「で、ついでにストロベリーフロートを」

「また? ホント好きね、それ」

「いいじゃない、おいしいしカワイイし」

「だからって、こんな冬の日に? ブルブルっ」

「いいのよ、お腹に季節は届いてないんだから」

「それにしても、手袋8人分って、どのくらい時間かかるのかしら?」

「まだ1ヶ月以上もあるんだから、三人でやれば間に合うわよ」

「私、編み物ってした事ないんだけど」

「私も、あんまりした事ない」

「実を言うと、私も。でも、これまでの感謝のしるしなんだから、やっぱり、手作りがいいと思うし」

「うん、さすがは提案者。じゃあ、完成したら、ユイのおごりでパーティーねっ」

「ええ、いいわよ、お菓子とストロベリーフロートで良ければ」

「わ〜い♪」

白い息を吐きながら、卒業を控えたバレエ部の先輩達にプレゼントする、手袋の材料を買いに、街の百貨店へと向かう。

友人達との、他愛のないおしゃべり。

真剣と遊びが半々の、部活動。

惰性にひたりがちな、学園生活。

ありふれた、けれど、かけがえのない日々。

それでも、ふと、ユイの意識はそんな日常から離れる時がある。

このような状態になるのは、いったい、いつ頃が始まりだったろう。

時折、意識の中に降りてくる。

目や耳を通さず、頭に直接伝わってくる、なにか。

ふと現われて、いつのまにか消えて。

どういう現象なのか、なにが原因なのか、まるでわからない。

「それ」には、意味らしきものがまるで見出せない。

折に触れ、ユイは考える。

この感じは、いったいなんなのか。

ほんのかすかな、感覚。

気にしなければ、途端に薄れてしまうほどに、あやふやなもの。

だったら、気にしなければ良いだけの話だ。

無視してしまえば、あっけなく頭から霧散していくだろう。

それなのに、ユイは無視する事が出来ずにいた。

「note」。

そう呼ぶようになったのは、彼女が「それ」から抱いた印象による。

断片的な記号。

まるで音符のよう。

自分の中へと広がり、そのたびにユイは手を伸ばす。

つかまえても、それだけでは意味を持たない。

瞬く間に消えていき、明確なものなど、残りはしない。

それでも・・・、

と、ユイは思う。

たとえ、今は断片であっても、いつかは・・・。

このような思いを持つに至った、ユイは、十数名の内の一人であった。

最初の内は、彼女を含む数十名に届いていた、「note」。

しかし、伝わるものは、あまりに淡く、注意を傾けていなければ、日常のノイズによってかき消される。

ほとんどの者は、日々の生活に心が占められる内、一時の気の迷いと忘れていった。

そして、一人また一人と、その数は時と共に減り続けている。

始まりは、ボイジャー計画。

2機の惑星探査機は、天体の重力を利用する事で燃料をほとんど消費せずに加速や減速、軌道変更を行なう、「スイングバイ航法」によって、それぞれが79年に木星、80〜81年に土星へと接近し、さらにその進む先を遠方へと延ばしていった。

やがて、88年にボイジャー1号が、当時その進行ルート上最遠であった、海王星の公転軌道を越えると、搭載されていた唾液の主の内、数十名に「note」が伝わるようになる。

そして、ユイの唾液を載せたボイジャー2号が、最遠である冥王星の公転軌道を越えたのは、1991年。

この年、碇ユイ、14歳。

彼女が「note」を感じるようになったのは、奇しくも、息子シンジが人生の転機を迎える年齢と同じであった。

「・・・」

ユイは、自室の窓辺に立ち、ガラス越しの空を見上げていた。

机には、編みかけの手袋が置いてある。

そのそばには、濃いめにいれたコーヒーが湯気を立てている。

「今日も夜更かしか・・・」

けれど、なんとか送別会には間に合いそうだ。

毛糸、やっぱり、 ioioを選んで正解だった。先輩達のイメージに合う色が、ちゃんと全部そろってた。

喜んでくれたら、嬉しい。

きっと喜んでくれるだろう。

「よっ・・・と・・・」

なんとなく、爪先立ちをしてみるユイ。

さすがに、素足のままだと痛い。

だけど、最初の頃に比べたら、ずっとましになった。

1年生の頃から厳しかった先輩達。

もちろん、今では感謝してる。

だから、その気持ちを少しでも伝えられたら。

あの二人、今夜も遅くまでがんばってるだろうか。

彼女なんか、授業中にあくびを連発してたっけ。

「ふぅ・・・」

窓を開け、息抜きと眠気覚ましを兼ねて、冷たい空気を顔に当てる。

夜も深まったとはいえ、点在する街灯のせいで、星はまばらにしか輝いていない。

それでも、ユイの目は空へと吸い寄せられる。

心なしか、彼女には見えるような気がしていた。

数限りなくきらめく、星々。

数だけではない、広がりまでもが。

無数の星を包み込む、無限の空間。

「・・・」

ユイは、無意識の内に手を伸ばす。

どこまでも遠い、夜の闇に向けて。

その手がなにを目指しているのか、まだわからぬまま、それでも。

 

 


 

 

大学進学を意識しだした頃から、ユイは「note」とは距離を置くようになっていった。

時折伝わってくる感覚に対し、かつてのように深く踏み込むのをやめた。

興味がなくなったわけではない、むしろ、その逆だ。

しかし、「note」の存在が段々と鮮明に感じられるようになり、関心が高まっていく一方で、警戒する気持ちがユイの中に湧き起こっていた。

これは、ただの記憶に過ぎないのではないか。

幼い頃に見た、あまりに印象的な光景が、ふとしたはずみで表層に浮かんでくる。

心的外傷によるフラッシュバックとは違うものだとわかる。

「note」の伝えるイメージからは、恐れも悲しみも呼び起こされない。

それどころか、なんというか、ワクワクする。

けれど、それだけのもの。

浮かんでは、消えるだけ。

ただの思い出なのだとしたら、そんな過去の記憶に惑わされ、振り回されるのも馬鹿らしいじゃないか。

ユイは、自分の将来、人生の岐路を検討する中で、そう考えるようになった。

今見るべきは、未来なのだと。

彼女は「note」に対する態度を、やがて、他の物事へも応用させるようになっていく。

自分が判断し、行動する際、努めて客観的な視点を心がける。

物事の考え方を偏らせず、一時の感情に流される事なく、冷静に、自分の心と真正面に向き合って。

本当に重要なのは、なにか?

そのように考えた結果として、いくつかの選択肢から生物工学を選んだ事に、ユイは満足していた。

「note」への反発からではない、自分自身をしっかりと見つめた上で、生物工学を学びたいと望んでいる事に確信が持てたからだ。

自分の道は、自分で決める。

自分にはそれが出来ると思えた事で、いつしか、「note」に対しても冷静に向き合えるようになった。

音符のような、断片の数々。

それらは連なり、やがて、メロディとなる。

年月を重ねる中で、「note」は、あるイメージを形成していった。

映像と呼べるほど、はっきりしたものではない。

しかし、ユイにはわかる。

深遠なる暗闇の中に、散らばる光。

宇宙のどこか、あるポイント。

指し示めされた、場所が。

 

 


 

 

ユイがゼーレの仕事に参加するようになったのは、1997年、大学2年の夏休みに入って間もなくの頃である。

この年、ユイは20歳。

成人を迎え、祖父と父から持ちかけられた、突然の誘い。

聞けば、その団体は、去年の秋に提出した大学の懸賞論文を読んで興味を持ち、他のレポートなどもひと通りチェックしたのだという。

それを聞いて、ユイは少々気恥ずかしい思いにとらわれたものだ。

あの論文は、最優秀賞には届かず、優秀賞に落ち着いた代物だ。

教授からは、「少々突飛な内容だな」と言われたが、ちゃんと読んでくれれば、そんな事もないとわかっただろうに。

団体の名前に、ユイはおぼろげながら聞き覚えがあった。

両親に連れられ、小学校入学の挨拶をしに祖父の邸宅を訪れた際、父と祖父が話しているのを小耳に挟んだのだ。

幼い子供だから構うまいと思ったのだろうが、ユイは記憶していた。会話の内容はまるで理解不能でも、その名前(当時は名前だとも認識していなかった)だけは妙に耳に残った。

ゼーレ。

彼ら組織は、計画の推進に必要な人材を集めるべく、様々な研究団体や企業はもとより、大学や高校に至るまで、広く世界に探索の網を広げていた。

そして、彼女を見つけた。

ゼーレにとって、ユイは有益な人材であった。

彼女よりも高い学識を有する者は、もちろん、他にも数多くいるだろう。

しかし、そんな事が問題なのではない。

求めるべきは、知識ではなく、広がりを持つ知恵。

そして、知恵の駆使を可能とする、発想の柔軟性。

高みへと至るための、左右の翼。

ユイが選ばれたのは、これこそが理由だ。彼女は、あくまで彼女自身の才覚を認められたのである。

「碇の一族」という肩書きは、あってないようなもの。

確かに、関係者を採用すれば、ゼーレが協力者との結びつきを密にしているという印象を与える事が出来るだろう。

真の目的を知られぬよう、死海文書・裏死海文書の「原本」は、一般職員すら存在を知らない保管室で高度のセキュリティに守られており、協力者の目に触れる機会などない。

とはいえ、悲願の成就のために、時間も資金も、そして人材も、全てを最大限有効に活用していかなければならない中、不要の者を組織に入れるなど、そんな余裕があるわけもない。

また、

「note」にしても、ゼーレにとっては考慮の外であった。

感じ取れる者の存在は、現われ始めた88〜91年の時点でゼーレも確認しており、当初は至高神によるなんらかの「メッセージ」ではないのかと注目していた。

しかし、対象者数名に接触し、脳や体の検査を試みたものの、具体的なものはなんら見出せなかった。

ゼーレにとっても当人達にとっても、「note」はあやふやな現象のまま。

初めは数十名いた者達も、その数は時と共に減少し続け、97年の時点では、10名にも満たないまでに減ってしまった。

ゼーレは、しかし、この結果を良しとした。

結局は、その程度のものであったのだ。

そもそも、重要な言葉であるならば、自分達にこそ届くはずだ、と。

つまり、幹部達は皆、「note」を感じてはいなかった。

同様にして、政府・企業のトップ達も。

だが、彼らは選ばれなかったのではない。現在の生活や地位、常識や既成概念、主義や信条といった、これまで守ってきたものへの強過ぎる執着によって、自ら扉を閉ざしていたのだ。

ゼーレが固執したのは、あくまでも自分達の信じた「至高神」であり、自分達の信じる「救済」であった。

加えて、自分達こそ「選ばれし者」だという自負は、「note」に対し、協力者への「挨拶」程度だろうとの軽視を許した。

協力者達は、あくまで我等の活動をサポートする存在に過ぎない。

千年以上に渡って受け継いできた我等こそが、至高神の言葉を聞く事の出来る存在なのだ。

しかし、

この慢心こそが、のちにゲンドウやユイの謀反を許す隙となるのである。

「・・・」

ユイは、自室の机に頬杖を突いていた。

そばに置かれたパソコンでは、いくつかのウィンドウが開いている。

この日、祖父と父に連れられ、ゼーレの研究施設を見に行ったユイ。

あの時の驚きと興奮は、数時間経った今でも、まざまざと残っている。

これまでに見た事のない設備や機材。

最先端と知られたものより、はるかに先を行く理論。

ほんのわずか目にしただけだが、それでも、どれほどの超越技術が存在しているか、ユイには充分なほど見て取れた。

自宅に帰ってからも、ユイはじっとしている事が出来ず、ネットでゼーレ関連の情報を探してみた。

しかし、モニタに映し出されるのは、拍子抜けするほど当たり障りのないものばかりであった。

国際的な団体のようなのだが、具体的な活動が数えるほどしか見えてこない。

対して、やたらと目に入ってくるのは、団体に関する、噂の数々。

そのほとんどは、都市伝説にありがちな陰謀論や裏で暗躍する秘密結社説の類であり、真剣に取り上げるようなものではない。

だが、ユイは感じていた。

どことなく、作為があるように思えてならない。

不自然なほどに撒き散らされた、噂、噂、噂。

まるで、木を隠すために森を作ったとでもいうような。

「ふう・・・」

ユイはパソコンのモニタから目を離すと、伸びをしながら深呼吸した。

全身の力を抜いて、目を閉じる。

よく考えてみよう。

重要な選択だ。

こんな時こそ、冷静に、客観的に。

ゼーレという団体。

不審に思わないではない。

あれだけのものを見させられたあとでは、なおさらだ。

しかも、仕事の核心に至る部分は、団体に入ると約束してからじゃないと話せないと言っていた。

つまり、今日見たあれらは、まだほんの末端に過ぎないという事だ。

あの程度なら、一介の学生に見せても構いはしないというのだろうか。

慎重だが、一方で大胆でもある。

なぜ、私のような者に、そんなマネをするのだろう。

それほどの危険を冒してでも、得たいという人材なんだろうか、私は。

なんて、思い上がるなんて出来はしない。

自分にどれほどのスキルがあるのか、自分が社会に対してどれほどの価値を持っているのか、そんな事は、まだわかりっこない。

成人になったとはいえ、自分はまだ、ただの学生に過ぎないのだから。

・・・なるほど、そうか。

ただの学生、だからか。

権威ある、高名な人物の告発ならともかく、私なんかが騒いだところで、周りが耳を傾けるはずもない。

いくら騒ぎ立てても、撒き散らされた噂にまぎれてしまうだけ。

周到に隠された秘密。

秘密。

いったい、どんな秘密なのだろう・・・。

正直言って、ものすごく知りたい・・・。

おじいちゃんやお父さんは、あの団体の事をずっと昔から知っていた。

まさか、自分の家族を怪しいところで働かせようだなんて思わないだろう。

確かに、権力や金銭への欲は人一倍あるようだけど、あの人達は、悪事に手を染めるような人間じゃない。

これは、家族の欲目なんかじゃないと思う。

お母さんがあれほど朗らかな笑顔でいられるのだって、きっと、それが理由のはず。

なにより、二人とも私を愛してくれているし、私も二人が大好きだ。

団体への参加を薦めてくれた時も、無理強いなどせず、最終的な判断は私に任せてくれた。

結局のところ、

私自身はどうなんだろう。

もちろん、とても魅力的な場所だ。

あの施設を見れば、教授も私の論文が「突飛だ」なんて言わなくなるに違いない。

私自身にとっても、理想の環境。

そして、とても大きな、秘密。

・・・

「ん?」

突然、パソコンからメールの着信を告げる音がした。

ソフトを立ち上げて確認すると、友人から送られたものであった。

さっそく目を通し、

「え・・・、本当に・・・?」

驚いてつぶやくユイ。

メールの主とは、数年前、碇の企業が創設100周年記念に開催したパーティで知り合った。

父から、提携先の社長令嬢と紹介された彼女は、3つ年上ながらも、気さくな性格ですぐにユイと仲良くなり、以来、親しい付き合いが続いている。

その彼女もまた、ゼーレから誘いを受けたのだという。

しかも、すでに承諾の返事をしたとの事。

ユイは、すぐさまメールを送った。

 

『実は、私も誘われたの。

 でも、どうしようか決めかねていて。

 ゼーレっていう団体が、よくわからないし。

 ねえ、あなたは、どうやって結論を出したの?』

 

間もなく、友人から返事が届く。

 

『やりたかったから、それだけ。』

 

思わず吹き出すユイ。

そうだった、彼女はこういう人だった。

私のような思考型ではなく、直感型。

なのに、不思議と同じ結論になる事が多くて。

 

『ありがとう、参考になったわ。』

 

『どういたしまして。

 あなたも私と同じ結論が出たなら、嬉しいわ。

 それじゃあね。

 “ MTNBWY ”』

 

最後の1行にクスリと微笑んで、ユイはメールソフトを閉じた。

次の瞬間、ふと、ある考えが浮かぶ。

いや、どうだろう・・・。

まさか、そんなはずは・・・。

友人がメールの最後に書いた言葉。

有名なSF映画に出てくる台詞のアレンジだ。

“ MTNBWY ”

“ May The Note Be With You.(「note」と共にあらん事を) ”

彼女もまた、「note」を感じる事の出来る一人であった。

ゼーレに協力する者の親族として、彼女の唾液はボイジャー1号に搭載されており、1988年、ユイと同じく14歳から、彼女にも「note」が届くようになっていた。

二人共が、ゼーレに誘われた。

これは、単なる偶然だろうか。

もしかしたら、なにか関係があるのかもしれない。

自分達は、そのために「選ばれた」のだとしたら。

でも・・・、もしそうだとしても・・・。

パソコンのウィンドウに表示される名前。

Seele          ゼーレ

  Seele        ゼーレ  Seele

 ゼーレ   Seele      ゼーレ 

ゼーレ        ゼーレ

「・・・」

ユイは再び目を閉じ、考え続け、そして、結論を出した。

様々な思いがある中、様々な思考を重ねた上で、まっすぐに見つめた、自分の心。

たとえ失うものがあったとしても、それでも、悔いのない選択を。

「・・・」

ユイはパソコンに向かうと、祖父と父へメールを送信した。

短くも、確かな意志を。

 

『私、やります。』

 

 


 

 

ゼーレで研究を行なうようになって2年が経とうとする頃、ユイは大学の助教授である冬月コウゾウと知り合う。

彼を知ったのは、ユイが専攻する生物工学の教授から、提出したレポートを読んでの感想をもらった時だ。

レポートに目を通しつつ、「これまた突飛だねぇ・・・」と苦笑する教授の口から、続けて出た言葉。

「けど、彼なら理解出来るかもなぁ」

「彼、といいますと?」

「ああ、形而上生物学の助教授で冬月君、知らない?」

「はい」

初めて聞く名だったが、教授から話を聞いて、ユイは関心を持った。

この論文が理解出来そうな人物。

自分で言うのもなんだけど、そんな奇特な人がいるだなんて。

もしかしたら、話が合うかもしれないし、ゼーレの仕事に役立つヒントが得られるかもしれない。

ユイは、さっそくコウゾウと連絡を取った。

そして、頃を同じくして、

ユイは、のちに夫となる、六分儀ゲンドウと出会う。

ここに、運命の皮肉とでも呼ぶべき事柄があった。

ユイと同じ大学に籍を置きながら、ゼーレの人材発掘の網に、ゲンドウが引っかからなかった件である。

ゲンドウはほとんど講義に出席せず、レポートや論文もろくに書かなかったので、年齢はユイより10歳も上ながら、学年は彼女よりも下だった。

そんな男であったがため、ゼーレが彼を知る機会はなかったのだ。

もしも、ゲンドウの才覚を知れば、ゼーレの方から誘っていたはずだ。

しかし、もしそうなっていたなら、ゲンドウはユイと出会わなかったであろう。

様々な流れの中で、人は出会う。

それは、数え切れない可能性の、1つ。

これら1つ1つが寄り集まり、人生は、世界は紡がれていく。

大学での日々の中、ユイはコウゾウと親交を結び、ゲンドウと親密の度を深めていった。

コウゾウとゲンドウ、彼らとの交流の中で、ユイは研究を発展させるヒントを得る事もたびたびであった。

二人共に、視点が他の者とは違う。

会話の中、驚かされ、感心させられた事は、一度や二度ではない。

それに、もう1つ、ユイは気づいていた。

多分、どちらに言っても同意は得られないであろう。

一見しての立ち振る舞いは、およそかけ離れている。

しかし、よく見ていればわかる。

あの二人には、似ている部分がある。

二人の中にある、小さくも力強い光。

ユイは、常々考えていた。

彼らが出会ったら、どうなるだろうか。

最初は、やはり、反目しあうだろう。

だけど、いずれは・・・。

ユイの推測した通り、コウゾウがゲンドウに対して初めて抱いた印象は、「嫌な男」であった。

また、ゲンドウにしても、ユイからコウゾウの話を聞いた当初、彼に対して抱いた印象は、およそかんばしいものではなかった。

酒の席で吹っかけられた喧嘩により、留置場へと入れられた際、コウゾウを身元引受人に指名したのも、半分は彼に興味があったからだが、もう半分は嫌がらせ、というか、「試してやろう」という気持ちからだった。

ゲンドウに自覚はなかったが、これは、嫉妬を由来とするものである。

コウゾウについて話す時、ユイはいつになく熱心な口調と視線をゲンドウに向けた。

彼の、広大かつ深遠な知識、ユニークな視点、鋭い洞察力。

人間的にも尊敬出来る人物で、自分は彼のファンだ、と。

ユイの熱心さは、二人を引き合わせたいがためのものであったのだが、ゲンドウにとってはあまり気分の良いものではなかった。

そして、「そんなにご立派な先生だというのなら」という気持ちに駆られての指名だったのである。

しかし、コウゾウの遠慮のないシニカルな態度に、ゲンドウは、会って早々、わずかだが好感を抱いた。

なるほど、面白い男だ。

そう感じて、ゲンドウは、少しばかり驚いた。

自分がこんな感想を他人に抱くのは、これで二人目だ。

思わず、ゲンドウの脳裏に彼女の顔が浮かんだ。

 

 


 

 

ユイがゲンドウの様子に異変を感じるようになったのは、彼が人工進化研究所の所長を務めるようになって、しばらく経った頃だった。

人工進化研究所。

国連直轄の研究機関であり、遺伝子工学を中心に取り扱っている。

というのは、表向きの顔。

実態は、ゼーレ内部においては「ゲヒルン」と呼ばれ、セカンドインパクトで四散した光の巨人「アダム」を、事前に採取した生体サンプルから人工的に再生するための「E計画」を推進しており、ユイも職員として研究に参加している。

仕事の内容について、ユイとゲンドウは自宅でも話をし、時には議論を戦わせる事もあった。

これは、大学時代からの慣習といっても良いだろう。

当時は、ユイとゲンドウ、それにコウゾウも交え、各自の研究に関する理論について、深夜遅くまで議論を戦わせる事がたびたびであった。

そして、結婚してから今に至っても、それは二人の間で引き続き交わされていた。

しかし、この頃の彼は妙だと、ユイは感じていた。

表向きは、いつもと変わらぬ態度。

なのに、どこかおかしい。

「なにかあったの?」と尋ねても、「なにもない」と答えるのだろうとわかっている。

わかっていながら尋ねて、やはり、返ってきたのは予想した通りの答え。

たとえ、繰り返し尋ねても、結局は同じ答えが返ってくるだけなのだろう。

わかっている。

彼の事ならわかっている、そう思っていた。

なのに、今の彼はわからない。

出来るのは、想像する事だけ。

彼は、きっと、苦しんでいる。

きっと、ゼーレがらみで、私の知らないなにかがあったのだろう。

ユイや他の一般職員が知らされているのは、この組織の目的がアダムより生まれし巨大生命体「使徒」の殲滅にあるという事。

人類を守るための組織、それがゼーレ。

しかし、仕事を進めていく中で、ユイ自身、それだけではないのではという疑念が浮かぶようになっていた。

その疑念の中心に、彼は踏み込んでいるのではないか。 

「・・・」

自宅のキッチンで、夕食の準備を進めながら考えにふけっているユイ。

ふと、エプロンのすそを引っ張る感覚があるのに気づく。

「シンジ・・・」

歩けるようになって、まだ間もない息子。

すそを引っ張りながら、母親の顔を覗き込んでいる。

「ママ・・・?」

その、案ずるような瞳に、思わずシンジを抱きしめるユイ。

「ありがとう・・・、大丈夫よ・・・」

大切な我が子。

心から愛おしく思い、その気持ちに救われる。

そして、ぎこちない様子でシンジに接していた、彼。

こんな風に、あの人も抱きしめてあげられたなら・・・。

・・・

駄目だ、駄目だ。

こういう時こそ、しっかりしなくては。

あの人のために、そして、この子のためにも、自分自身のためにも。

私に、なにか出来る事は・・・。

そんな思いをめぐらせていた頃、ユイの中にある変化が起こる。

それは、「note」から伝わるイメージ。

これまでは、宇宙の、あるポイントだけが繰り返されてきた。

だが、それとは別に、もう1つのイメージが現われるようになったのである。

それは、伝わった当初から、断片ではなく、鮮明な形を示していた。

石板が、2つ。

表面には、古代文字のようなものが刻まれている。

伝わってきたのは、これだけ。

いつもと変わらず、多くは語らぬままに。

ただ、ユイは、これがゲンドウ、そして、ゼーレと関連があるように思えてならなかった。

単に時期が重なっただけで、まるで無関係なのかもしれない。

だが、もしも、これが「手がかり」であるとしたら・・・。

冷静であろうと唱えながら、それでも心に残ったものを見つめる。

そして、ユイは決意した。

他になにもない以上、たとえ確信が持てなくても、賭けてみるしかないのだと。

 

 


 

 

「ええ・・・、そうね。こっちの準備も明後日には完了するから、詳しい事はまた。・・・ええ、わかったわ。それじゃあ、気をつけてね」

私物の携帯電話を切り、深く息を吐きながら、自宅のリビングで椅子に体を預ける。

ユイがゼーレを探るために動き始めて、2ヶ月半が過ぎた。

本来の研究を行ないながら、平行して作業を進める中、ゼーレ本部ビルに一般職員が知らされていない秘密の階が存在する事実を突き止めていた。

これも、協力者の尽力のたまものだ。

ゼーレ本部はドイツにあり、もちろん、理由もなしにユイが日本から頻繁に訪ねるというのは、不自然極まりない。

だが、幸いな事に、本部近くにあるゲヒルンの第1支部には古くからの友人が務めており、本部の研究室にも頻繁に通っていた。

ユイがゼーレの誘いを受けようか迷っていた際、メールを送ってきた、彼女。

彼女は、ユイからの相談を受け、自ら進んで協力を申し出た。

ユイ同様、彼女も「note」から石板のイメージを感じ取っていたのだ。

そして、本部ビルに関する様々な情報を入手し、ユイと共に作戦を練り上げていった。

石板のある保管室へたどり着くまでには、いくつものセキュリティを突破しなければならない。  

秘密の階へは幹部職員専用のエレベーターでなければ行く事が出来ず、これに乗るには認証システムをパスするためのIDカードが必要となる。

保管室のドア、石板が納められている特殊合金製のケースにも、個別の認証システムがあり、エレベーターのものを含め、それぞれに異なるIDカードを使用する。

ビル全体の廊下とエレベーターには防犯カメラが設置されており、同様に、幹部用エレベーター、保管室階の廊下、保管室内にも、侵入者を見張る眼がいくつも光っている。

さらに、廊下と保管室の床には、それぞれに圧力の変化を感知するシステムが張り巡らされており、反応があれば、すぐさまセキュリティ管理室へと連絡がいく。

これら詳細な情報を得るのは、もちろん、容易ではなかった。

本部のメインコンピュータにおいて、保管室関連の情報やシステム部分は全てがブラックボックス化されており、関係者以外の者はアクセス出来ないようになっていた。

まずは、ここを突破しなければならない。

作戦の要となるのは、使用するコンピュータ。

メインコンピュータへのハッキングを可能とする、超高度な処理機能を実現するための、システムの構築。

ハードについては、すでにパーツが存在していた。

ゲヒルンにおける、赤木ナオコを筆頭とした第七世代有機コンピュータの開発プロジェクトに、ユイも参加していた。

その時にユイが試作開発し、保管しておいた、生体分子素子を利用して、機体を組み上げる。

マギシステムが完成していない今の内であれば、これでも充分に活用出来る。

だが、肝心なのはOSだ。

作戦を他の者に知られないようにするには、簡単に持ち運びが出来るよう、機体をキャリーバッグに収まる程度のサイズにする必要がある。あまり大きなものになると、本部ビルに直接空輸しなければならなくなり、それだと中身のチェックが入る事になるからだ。

いくつかに分解して発送し、協力者の自宅から本部に運び込むという手もあるが、結局、研究室で組み立てれば、他の職員の目に留まるだろう。

作戦当日、他の職員がいなくなってから運び込み、それから組み立てていては、作戦実行のための時間が少なくなってしまう。

石板の中身を確認するのに、どれだけかかるのか不明な以上、出来る限りの時間を確保しておきたい。

機体はコンパクトに。

一方で、ハッキングを成功させるべく、可能な限り高い性能を。

両立させるには、ハード面の制約を補って余りあるOSの開発を、可及的速やかに行なわなければならない。

この実現が可能となったのは、もう一人の協力者のおかげだ。

おかげで、コンピュータは比較的短期間に完成する事が出来、ドイツの協力者の自宅へと送られた。

彼女はこれを駆使し、ゼーレ本部の研究室からブラックボックスへのアクセスを成功させ、詳細な情報を得る事に成功したのだ。

「・・・」

思わず、眉をひそめるユイ。

部外者である彼を巻き込んでしまった事を、今でも申し訳なく思っている。

ハッキングに必要なコンピュータを製作するには、どうしてもユイ達二人では力が足りなかった。

そして、短期間での開発が実現出来る人物を、ユイは一人しか知らなかった。

「冬月先生・・・」

 

 


 

 

協力を依頼すべく、コウゾウのもとを訪れた、あの日。

ゲヒルンの研究室にいたユイは、机の上へと手が伸びそうになりながら、迷いに動きを止めていた。

セカンドインパクト以降、彼とは一度も会っていない。

聞いた話では、今は豊橋の水没跡で、船を拠点にモグリの医者をしているらしい。

出来れば、巻き込みたくはない。

しかし、ゼーレ本部のセキュリティを突破するためには、彼の協力がどうしても必要だ。

「・・・」

机の上に置かれた写真立てが、視野に入る。

こちらに向かって笑っている、シンジの写真。

ユイは、机にあった車のキーを取ると、近くの同僚に、今日はもう戻らないと告げた。

ドアへと向かう前に、再び写真に視線を送る。

「大丈夫」とでも言うように、我が子へ微笑みかけると、ユイはそのまま部屋を出た。

 

 


 

 

「冬月先生」

「・・・ユイ君、君か!?」

外出先から戻ってきたコウゾウは、病院の前に立つ女性の姿に驚き、思わず大きな声を上げた。

「お久しぶりです」

「ああ、もう2年になるな。どうだ、元気でやってるかい?」

「ええ、先生もお元気そうで」

コウゾウは、再会の喜びに浸りながら、一方で気恥ずかしさを感じてもいた。

病院とはいいながら、モグリの医者であれば、古びた船を利用し、人目を避けて開業するしかない。

こんな所で仕事をしていれば、身なりも構わなくなろうというものだ。

そんな自分に比べて、彼女は、今も輝きを失っていない。

「それにしても、いったいどうしたっていうんだ? もしかして、ずっと待ってたのかい?」

「おうかがいしたのは30分ほど前なんですが、あそこに」

そう言って、ユイは船のドアにかけられた小さな札を指差す。

 

【18:00頃に戻ります。緊急の際は下記の番号まで】

 

「ああ、これは飛び込みの患者用でね。そうか、でも、電話してくれれば良かったのに。ご覧の通り、番号は昔のままだからね」

「そうしようかとも思ったんですが・・・」

ユイはわずかに言いよどんでから、先を続けた。

「もしかしたら、出て頂けないかと・・・」

「・・・」

「そんな事はない」という言葉を、コウゾウは間際で飲み込んだ。

多分、自分がゼーレについて調べている事を知っているのだろう。

あの悲劇の日より2年が過ぎ、コウゾウはセカンドインパクト発生の真相を独自に調査していた。

国連の公式発表では、「巨大質量隕石の落下による」とだけ。

しかし、

参加した南極調査によって知った、「光の巨人」の存在。

裏で糸を引いている、ゼーレという組織。

そして、あの男。

碇ゲンドウ。

「・・・とにかく入ってくれ、到底きれいとは言えない部屋だがね」

「ありがとうございます、お邪魔します」

待合室などといった気の利いたものがあるはずもなく、コウゾウは窮屈な一室へ招き入れると、事務用の背もたれがある椅子をユイに勧めた。

「言った通りだろ?」

「いえ、先生らしい、整然としたお部屋ですね」

言葉通り受け取って良いものか考えつつ、コウゾウは患者用の丸椅子に座った。

「で、今日はどういった用なのかな?」

「ええ、実は、お願いしたい事がありまして」

「ほう、なんだい?」

ユイはほんのわずかに息を詰めたが、次の瞬間、一気に言葉を吐き出した。

「率直に言います。ゼーレの秘密を暴くために、お力をお借りしたいんです」

「ゼーレの、秘密だって!?」

「はい」

「どういう事だ?」

「ゼーレは、世間にはもちろん、私達一般職員にも知らせていない、重大な秘密を持っている可能性があるんです。そして、ドイツ本部に保管されている物が、秘密に関係しているのかも知れない・・・」

「可能性・・・、かも知れない・・・」

「・・・ええ、そうです。全てはなんら確証のない、私の憶測に過ぎません・・・」

「・・・続けてくれ」

コウゾウは先を促し、ユイはうなずいて話を続けた。

ここ最近のゲンドウの様子、ゼーレの活動、協力者の存在、隠された部屋、そして、秘密の存在に至った理由。

「「note」・・・、音符か」

「ええ、最初の内は、ただただ断片的なものに過ぎなくて。それが、ここ数年の間に、宇宙のあるポイントを示しているとわかるようになったんです。でも、最近、それとは別に」

「2枚の石板が?」

「はい、それで、表面にはこんな文字が」

言いながら、ユイはバッグから1枚の紙を取り出すと、コウゾウに手渡した。

「これは・・・、古代文字のようだな」

「研究室のコンピュータを使って調べてみたんですが、意味の成り立つ文章として翻訳されました」

コウゾウは、古代文字の下に書かれた翻訳文へと目を通す。

「なにかの操作方法のようだが・・・」

どうやら、指示通りに石板の表面を操作する事で、なにかが「見える」らしい。

「で、その石板が秘密の鍵を握ると、君は考えてるんだね?」

「・・・」

ユイは、少しの間沈黙した。

「先ほども言いましたが、全ては私の思い込みに過ぎないのかもしれません。あの人の様子も、ゼーレの秘密も・・・」

「・・・」

「でも、色々考えた末に、結論を出したんです。確かめてみなければ、なにもわからないって」

「・・・」

「もちろん、信じて頂けなくても当然です。断られても仕方がありません。けれど・・・」

「・・・」

「それでも、あきらめるわけにはいかないんです」

「・・・そうだな・・・」

コウゾウは、すぐに答える事をしなかった。

返事は、すでに胸の中にある。

しかし、やるからには、生半可な覚悟では務まらない。

自分も、全てをかけなければならないだろう。

だからこそ、しっかりと見極めなければ。

彼女の話は、到底信じられる内容ではない。

しかし、それが彼女の口から出たという事実は、一笑に付すのをためらわせる。

なにより、揺るがぬ決意を示す、言葉と瞳。

コウゾウが知る、碇ユイという女性。

過去に重ねた交流の中で、彼女は常にまっすぐであった。

人を信じ、人の未来を信じ。

人類の進化という壮大な話であっても、彼女の口から発せられれば、可能性を信じたい気持ちになったものだ。

病院の前に立っていた、彼女の姿。

あの時受けた感慨を思い出す。

喜びと共に、驚かされたのは、その瞳。

そう、あの頃と変わらずに。

「それで・・・」

コウゾウは、瞳をまっすぐ見つめ返しながら、ユイに言った。

「俺は、なにをすればいいのかな?」

これは、彼女だけではない、自分にとっても答えを出さなければならない事。

だからこそ、事実を明らかにしなければ。

 

 


 

 

ドイツ、ゼーレ本部ビル。

幹部達を含む、職員の大半が帰宅した深夜、ひと気もなく静まり返った階で、ユイは1人待機していた。

「・・・」

幹部職員専用エレベーターの前に立ち、天井に設置された防犯カメラをにらむように凝視する。

気のせいだとわかっていても、「見られている」感覚で背中がピリピリとする。

廊下のカメラは今も作動中だ。

しかし、そのどれもが、ユイを映してはいない。

幹部用エレベーターや秘密の階の廊下、保管室を含む、このビル全てのカメラを管理するシステムは、すでにハッキングが完了しており、地下にあるセキュリティ管理室の警報システムならびに職員達は、現在、偽の映像を見せられている。

もちろん、これはまだ、ほんの手始めに過ぎない。

メインコンピュータ内において、セキュリティ・システムは大きく3つに分けられており、それぞれにアクセスする必要がある。

1つは、ビル全体の防犯カメラ。

1つは、保管室階の廊下と、保管室の床に張り巡らされた、圧力感知システム。

1つは、エレベーターと保管室の入り口、そして、石板が納められているケースに設置された、IDカードによる認証システム。

さらに、圧力感知と認証については、こちらも設置場所ごとにシステムが分かれている。

「ユイ、こっちの準備はOKよ」

「こっちも、いつでもいいわ」

携帯電話からの声に、ユイは答える。

協力者の彼女は、本部ビルにある自身の研究室、その端末から、三人で作ったコンピュータを駆使してシステムにアクセスしていた。

様々な制約の中で行なわれる、この作戦。

まず、コンピュータは自宅から持ち運び可能なコンパクトさを実現するため、必要最低限の性能に抑えられており、システムのコントロールは同時に3つまでしか実行出来ない。

つまり、常時コントロールする防犯カメラの他、残る2つを状況に応じて切り替えていく必要がある。

また、エレベーターから先は、壁が電波を遮断する特殊素材で覆われており、交信は行なえない。

全防犯カメラの映像、そして、エレベーターのドア、保管室のドア、保管ケースの開閉状況はモニタが可能なものの、意思の伝達は、カメラ映像を介した、ユイからの一方向に限定される。

「「note」を感じる者同士、テレパシーとか使えればいいのに」

重大事を前にしながらこのような言葉が吐ける彼女を、ユイは呆れつつも頼もしく思った。

「そんな便利なものじゃないでしょ。それどころか、いつだって思わせぶりで」

「そうよね、なんていうか、道しるべって感じだものね」

「道しるべ?」

「ん、まあ、それについては、あとで。じゃあ、始めましょうか」

「ええ」

「・・・」

「?」

「・・・なんだか、ワクワクするわ」

「ちょっと?」

「ううん、このコンピュータの事よ。ブラックボックスを開くのだってあっという間だったし、なんていうか、魔法の杖を持ってる気分。アロホモーラ!って唱えたくなるわ」

軽妙な声に、思わず笑みを浮かべるユイ。

「あなたの腕はもちろんだけど、冬月先生の手腕も相当なものね。使っててこんなにフィットするOS、初めてだわ」

「もちろんよ、私の尊敬する方だもの」

コウゾウがメインで開発したOSは、「ジェミニ」の愛称を与えられていた。

使用者の操作のクセや反応パターンなどを読み取り、学習し、判断し、よりスムーズな操作をサポートする。

使用者とOSの動作が、まるで双子のように、1つにシンクロする。

「私達には、とても心強い味方がついてるってわけね。でしょ?」

「ええ、そうね」

彼女の言葉に励まされ、ユイは奮い立つ。

そうだ。

私達には、強い味方がついていてくれる。

この恩に報いるためにも、必ず成功させなければ。

「これが済んだら、直接お会いしたいわ、冬月先生に」

「いいわよ、終わったらね」

「終わらせるためにも、今度こそいくわよ」

「ええ、始めて」

「カウントダウン、スタート・・・5・・・4・・・3・・・2・・・1・・・ゼロ」

合図に合わせ、ユイは胸ポケットにある機械のスイッチを入れた。

互いに問題なく動作しているのを確認し合うと、作戦の実行を開始する。

手袋をはめた右手で、ユイがIDカードをスリットに差し込む。

持っているカードは、これだけ。

この中に、利用者のデータはなにも入っていない。

ただ「カードが差し込まれた」という事を伝えただけで、もちろん、記録にも残らない。

コントロール下に置かれた認証システムの表示が、「LOCKED」から「OPEN」に変わる。

「誰でもない誰か」を迎え入れるべく、エレベーターのドアが開く。

ユイは中へと入り、ボタンを操作した。  

 

   =現在、防犯カメラ、エレベーター認証システム、計2つをコントロール中=

 

一般職員用となんら変わりのないボタン配列。

しかし、いくつかのボタンを決められた順番で押すと、エレベーターは下へと動き始めた。

 

   =保管室階廊下の感圧システムを、コントロール下に置く=

 

セキュリティ管理室のモニタでは、幹部用エレベーター内のカメラは「無人の室内」を映している。

そして、全ての階で、幹部用エレベーター付近のカメラは「変化しない階数表示」を映している。

このエレベーターは、保管室へ向かっている場合、「存在しない階への移動」を不審に思われぬよう、適当な階に停止した形で表示される。そして、他の幹部職員にはわかるよう、表示される数字の色がオレンジからグリーンに変わる。

セキュリティ管理室の職員に侵入を気づかれないため、エレベーターに関する映像は、ハッキング時に録画しておいた映像とすりかえられている。

保管室内の映像もまた、すでにあらかじめ録画された「無人の室内」が管理室に届いている。

「ふぅ・・・」

エレベーターが、地下深くへと進んでいく。

大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせようとするユイ。

この中では、すでに通信が遮断されている。

だが、左耳に装着しているイヤフォンからは、胸ポケットの機械から発せられる、断続的な声が聞こえていた。

“ 4・・・3・・・2・・・1・・・ゼロ・・・11・・・10・・・9・・・8・・・7・・・6・・・5・・・4・・・3・・・2・・・1・・・ゼロ・・・11・・・ ”

あらかじめセッティングしておいた、12秒のカウントダウンが繰り返される。

行きと帰りの2回、タイミングを合わせて行動しなければならない状況がある。

そのため、エレベーターに乗る前、通信が可能な内に、同時に秒読みをスタートさせていた。

 

   =現在、防犯カメラ、エレベーター認証システム、廊下感圧システム、計3つをコントロール中=

 

“ 6・・・5・・・4・・・3・・・2・・・1・・・ゼロ・・・11・・・10・・・9・・・ ”

目的の階に到着すると、エレベーターのドアが開いた。

 

   =エレベーターのドアが開いた事を確認=

 

ユイは素早く廊下に出て、歩き出す。

 

   =エレベーターのドアが閉まった事を確認=

   =エレベーター認証システムをセキュリティ管理室へ復帰させ、保管室認証システムをコントロール下に置く=

 

認証システムは、ドアが閉まるまで復帰させる事が出来ない。

閉じる前に戻してしまうと、「閉じた」という情報だけが記録されてしまうからだ。

そして、「開いて」いないのに「閉じた」という状況を、システムは「異常」と判断し、即座に管理職員へ報告する。

“ ・・・2・・・1・・・ゼロ・・・11・・・10・・・9・・・8・・・7・・・ ”

早足で進むユイ。

目的の場所は、廊下をずっと進んだ突き当たり。

どうしてこんな遠くに作ったのかと思う。

壁もドアも、全体的に飾り気がなく、ひたすらに平坦で、いくら進んでも近づいている気がしない。

“ ・・・11・・・10・・・9・・・8・・・7・・・6・・・5・・・ ”

ようやく、保管室の前に立つ。

ユイは右手のIDカードを確認した。

スリットに差し込むのは、こちら側で間違いない。

目を閉じて、深呼吸を繰り返す。

“ 7・・・6・・・5・・・4・・・3・・・2・・・1・・・ゼロ・・・ ”

ここからが正念場。

そのための秒読みだ。

慎重を期すために、タイミングを合わせて行なわなければならない。

「・・・」

気持ちをしっかり保とうと、大切な人の顔を思い浮かべる。

ゲンドウの顔・・・、シンジの顔・・・。

自分は、今、そのためにここにいる。

(頼むわよ・・・)

システムを操作している彼女と、自分自身へ向けて、心の中でつぶやく。

それから、ユイは、防犯カメラに見えるよう左手を挙げた。

次のスタートから12秒後に開始するという合図。

“ 4・・・3・・・2・・・1・・・ゼロ ”

声がスタートを告げ、カウントダウンが始まる。

“ ・・・11・・・10・・・9・・・ ”

聞こえてくる声を確かめながら、カードを強く握りしめる。

口の中がからからだ。

もちろん、こんな事に慣れているはずもない。

だからこそ、冷静にカウントしてくれる音が必要だった。

時計を見る事も出来ず、極度の緊張状態におかれる中、感覚だけで1秒をはかるなど危険過ぎる。

“ 5・・・4・・・3・・・2・・・1・・・ゼロ ”

合図の声がした。

同時に、ユイはカードをスリットに差し込む。

“ ・・・11 ”

次のカウントダウンが始まっている。

認証システムの表示が、「LOCKED」から「OPEN」へと変わる。

ユイは息を殺しながら、ドアが開くのを待った。

 

   =保管室のドアが開いた事を確認=

 

“ ・・・9 ”

廊下から保管室への移動。

ただし、保管室の床にも感圧システムがあり、これをオフにしない限り、中へは入れない。

 

   =現在、防犯カメラ、廊下感圧システム、保管室認証システム、計3つをコントロール中=

 

廊下と保管室の感圧システムは、それぞれが独立している。

保管室に入るまで、ユイがいる廊下の感圧システムは復帰させられない。

そして、認証システムもまた、ドアが閉まるまでは復帰させられない。

壁にぶら下がれるような箇所などない。

だから、こうする。

この階のセキュリティを調べていて、見つけた盲点。

見逃されていた、わずかな「すき間」。

ユイは保管室へ向けて、静かに、かつ素早く、歩を進めた。

 

   =ユイの移動を確認、操作を開始=

 

“ 8・・・7・・・6・・・5 ”

 

   =廊下感圧システム、セキュリティ管理室へ復帰完了=

 

“ ・・・4・・・3・・・2・・・ ”

 

   =保管室感圧システムをコントロール下に置く=

   =現在、防犯カメラ、保管室認証システム、保管室感圧システム、計3つをコントロール中=

 

“ 1・・・ゼロ ”

ユイは足を踏み出し、室内へと飛び込んだ。

「はぁ・・・はぁ・・・」

止まっていた呼吸を再開する。

 

   =保管室のドアが閉じた事を確認=

   =保管室認証システム、セキュリティ管理室へ復帰完了=

   =現在、防犯カメラ、保管室感圧システム、計2つをコントロール中=

 

「やった・・・」

安堵と達成感から、思わず笑みを浮かべるユイ。そして、防犯カメラの向こうで見守っている彼女へと、両腕を高く振り上げ、成功の喜びを伝える。

感圧システムのコントロールを廊下から保管室へ切り替えるまでの間、ユイはシステムの及ばない場所にいる必要があった。

「・・・」

感慨をもって、足元を見つめる。

このような場で役立とうとは、中学高校の頃には想像すらしていなかった。

ここ数年遠ざかっていたので、10秒程度しかもたなかったが、それでも、うまくやれた。

ユイが履いていたのは、トゥシューズ。

バレエをやっていたおかげで、彼女は、爪先だけで、バランスを保って立ち続ける事が出来た。

感圧システムの及ばない、わずかな「すき間」。

自動ドアが行き来する、ガイドレールの上に。

重要なものを保管している部屋だけあって、ドアも頑丈な、幾分厚みのあるものであった。

ゆえに、敷かれていたレールもまた、4センチ程の幅を有していた。

「・・・」

落ち着きを取り戻しつつある鼓動。

しかし、それもつかの間。

眼前に見えるものは、鼓動を再び激しくさせた。

 

   =保管ケース認証システムをコントロール下に置く=

   =現在、防犯カメラ、保管室感圧システム、保管ケース認証システム、計3つをコントロール中=

 

「さあ・・・、いよいよね・・・」

左耳のイヤフォンを外す。

この部屋を出る時のために、秒読みは続いている。

早足で進み始めるユイ。

今回の侵入だけで、石板の中身を全て「見」る事が出来るのか、それとも、再度足を運ばなければならないのか。

そもそも、中にあるのは、本当にあの石板なのか。

なにも明らかではない。

だからこそ、早く始めなければ。

合金製ケースの前に立ち、ユイはわずかに震える手で、カードをスリットに差し込んだ。

かすかな音と共に、ケースが中央から開いていく。

中に納められている物を、確かめる。

「やっぱり・・・、間違いなかった・・・」

そこにあったのは、2枚の石板。

「note」が伝えていたイメージと、同じ物。

緊張と、それ以上の興奮に呼吸が早まるのを感じながら、厳粛な気持ちで石板の1枚を手に取るユイ。

新聞紙1面ほどの大きさながら、想像していたよりも、ずっと軽く感じる。

まるで、ユイを受け入れるかのように、それは腕の中へと納まった。

ユイは、そっと表面に触れた。

手袋をした指にも、温かさを感じる。

石板を慎重に1枚ずつ床へ置くと、ユイは、さっそく操作を開始した。

解読した古代文字の内容は、全て頭に入っている。

これで、はっきりするはず。

きっと、なにかが・・・。

 

 


 

 

「・・・これが、私が見た、ゼーレの計画の全貌です」

「まさか・・・、そんな・・・」

「・・・」

ドイツから帰国したユイは、空港から直接豊橋へ向かうと、コウゾウに全てを話した。

2枚の石板に収められていた情報。

ユイの脳内へと瞬く間に飛び込んできたイメージは、あまりに膨大で、かつ、驚愕すべきものであった。

死海文書と裏死海文書が地球で記録してきた様々な出来事の中には、ゼーレのこれまでの活動も網羅されていた。

そして、彼らの長年にわたる悲願。

「ヒトの、新生・・・」

「ええ・・・」

使徒を全て倒し、「儀式」を始める。

自分達の信じる神話や教義にのっとり、手に入れた「生命の実」と「知恵の実」を返上、至高神の望む生命体へと、完全なるゼロの状態からやり直す。

これこそが、ゼーレの真の目的。

その驚愕は、コウゾウを激しく揺り動かした。

「人の魂を・・・、白紙に戻すだと・・・」

「それが、彼らの導き出した結論です。ゼーレの前身である宗教団体、その教えにのっとった、ゆがんだ解釈の結果です」

「そんな事が・・・、許されるわけがない!」

「もちろんです。ですが、ゼーレの活動を止めるわけにはいきません」

コウゾウの怒りを受け止めながら、ユイは静かに言葉を返す。

「彼らの解釈はどうあれ、使徒は必ずやって来るんです。人類を滅ぼすために」

「・・・」

「もしも、この事が公になれば、世界レベルでのパニックは必至でしょう。最悪の場合、再び大規模な紛争が起こるかもしれない・・・」

「・・・」

コウゾウの脳裏にも、あの頃の光景が甦る。

セカンドインパクトが引き起こした、この世の地獄。

当時は、残り少ない食料や資源、エネルギーを奪い合って、国同士、民族同士の争いがいくつも起きた。

そして、今度は、ゼーレの持つ技術を奪い合う事になるのだろう。

自分達こそを、生き延びさせたいがために。

「あそこで働いている身としては・・・」

ユイは、かすかに苦笑を浮かべて言う。

「今は少しでも時間が惜しい状態です。世間の反発に対処している余裕なんて、およそありはしません」

「では、どうする?」

ゼーレの活動を見過ごすわけにはいかない。

しかし、ゼーレの活動なくしては、人類は生き残れない。

ユイは即答する。

「使徒を倒します。けれど、そこから先は、ゼーレの思い通りにはさせません」

決意を秘めた瞳で、ユイは続けた。

「そのために、エヴァをこちらで掌握します」

「エヴァを?」

「ええ、私がエヴァのコアと最初にシンクロする事で、インプリンティングを実行、他の者が制御出来ないようにします」

インプリンティング。

魂のないエヴァンゲリオンに対し、魂を持つ人間とコアをリンクさせ、その人物の情報を刷り込む事で、制御を可能とする。

だが、今の時点では、まだ理論の段階に過ぎず、最初の接触実験もこれから行なうのだと、ユイは言う。

「無茶な! 危険だ!」

「もちろん、事は慎重の上にも慎重に進めていきます。それに、あくまでも「パイロット」として登録するだけの事ですので、私自身に直接的な影響が及ぶものではありません」

「しかし・・・、万が一君になにかあったら、ゲンドウや、息子のシンジ君はどうするんだ?」

「わかっています・・・、でも・・・」

ユイは、苦渋を含んだ笑顔で言った。

「これは、私がやらなければならないんです。他の人に押しつけるわけにはいかない・・・」

「ユイ君・・・」

コウゾウは、先の自分の言葉を悔いた。

彼女にせよ、悩みぬいた上での結論であったに違いないのだ。

うまくいくかどうか、わからない。

最悪の場合、命の危険もあるだろう。

そんな事は、長年研究を続けてきた彼女自身が、一番承知しているはずなのだ。

それでも、彼女は選択した。

人々を救うために。

ゲンドウを、シンジを守るために。

「それに・・・、これは私自身のためでもあるんです。「note」があの石板を見せた意味・・・、そして、あの場所・・・」

「note」が伝えた、宇宙のポイント。

今では、はっきりと感じる。

あそこには、なにかがある。

「以前から、ふと頭に浮かぶ事がありました・・・。もしかしたら、これまでの私の選択は、自分の意志で決めたと思ってきた事は、「note」によって操作された結果なのではないかと・・・」

「まさか・・・」

「私も、まさかと思います。でも、一方で、疑いをぬぐい切れない自分がいるんです」

「・・・」

「だから、全ての疑問の答えを得るためにも、あの場所へ行って、本当の事を確かめたいんです」

「・・・」

コウゾウは、わずかの間、沈黙していた。

ユイと「note」の繋がりについて、自分には言える事などない。

だが、言わなければならない事が、1つある。

「君には黙ってたんだが・・・」

コウゾウは、静かにユイへと告げた。

「君が最初にここを訪れた2〜3日前、俺は、ゲンドウに会うためゲヒルンへ行ってるんだ」

「ゲヒルンに?」

「俺は長い間、セカンドインパクトが起きた真の理由を調べていた。多分、君も知ってると思うが」

「はい、あくまで噂としてですけど、耳には入っていました」

「そうか、やはりな」

 

 

「冬月、俺と一緒に人類の新たな歴史を作らないか?」

 

 

コウゾウは、南極調査団を離れる際、破棄するよう指示された資料をひそかに隠し持ち、ゼーレと国連およびゲンドウの結びつき、ゼーレからゲンドウへと流れた莫大な金の動きなどを、仔細に調査していた。

そして、集めた資料全てのコピーを手に、ゲンドウが所長を務める人工進化研究所、その真の顔である調査機関ゲヒルンを訪れた。

もちろん、余計な警戒をされぬよう、予告なしの訪問だ。

対して、備えというには甚だ心もとないが、資料のオリジナルはしかるべき場所に隠してあり、自分の身になにかあれば、信頼のおける報道機関へ隠し場所を知らせるよう手配してあった。

ところが、目の前に資料を広げ、真相の公開を迫るコウゾウに対し、ゲンドウはあくまで冷静に、警察署の前で初めて会った時と同様、不敵な笑みを浮かべるばかりであった。

ゲンドウは、コウゾウをゲヒルンの地下にある巨大空間へ案内すると、光の巨人アダムより造られた、彼らが「エヴァ」と呼ぶ巨大人型兵器を見せた。

そして、告げる。

セカンドインパクトが起きた真の原因と、この組織が目的としている「計画」を。

「冬月先生、ここの職員は、「使徒」という脅威を殲滅すべく活動を続けている。無論、人類を滅亡の危機から救うためだ」

「・・・」

「だが、ゼーレの目的とは、それだけではない。一部の者にしか知らされていない、真の目的が存在する」

「その目的とは・・・?」

「人類の、完全なる救済」

「完全なる、救済・・・?」

「そうだ、これこそが、ゼーレという存在の意義だ」

ゲンドウは、コウゾウにそう告げた。

しかし、

彼の口から出た「計画」の中身とは、事実とは異なるものであった。

向かい合って座るユイに対し、コウゾウはゆっくりと言葉を続ける。

「あの時、彼はこう言った・・・。ゼーレが目指しているのは、人類のさらなる進化なのだと・・・」

「・・・」

「使徒を全て倒し、「生命の実」と「知恵の実」を共に手中に収めた時、人類は新たな段階へと歩を進めるのだと」

「・・・」

「心の弱さゆえに苦難の道を歩み続けてきた人類。このままでは、滅びの道を行くしかない。だが、2つの「実」を得て、神に等しい力を持ち、欠けた心を補完する事で、「ヒト」という種は完成された生命体として前に進む事が出来るようになる。だから、そのために力を貸して欲しい、と」

コウゾウは、背もたれのない丸椅子に座りながら、すぐ後ろの机に背中を預けた。

「精神と肉体の分離、「意識」という階層の第一層たる「集合的無意識」への人工的アクセス、生物の多次元的進化、「ヒト」という種への応用・・・」

そして、ユイを見据えて尋ねる。

「なにか感じないか、この「計画」の中身について?」

「・・・」

ユイは、どう答えて良いのかわからなかった。

ただ、思い出していた。

セカンドインパクトの以前、自分達が大学に在籍していた頃の事を。

当時、ユイとゲンドウ、そして、コウゾウは、自分達の研究について頻繁に議論を戦わせていた。

あのゲンドウが、コウゾウの反論に対して感情をあらわにする場面も、一度や二度ではなかった。

三人で、人間について、世界について、何時間も語り合った。

充実していた。

楽しかった。

今でも大切な、輝かしい記憶だ。

「ユイ君、俺は思うんだよ」

「・・・」

「彼が語った「計画」は、俺達三人の理論から生まれた結晶なのだと」

それは、人類の未来を願ってのもの。

ユイへと語りかけながら、コウゾウの顔にかすかな笑みが浮かぶ。

「彼から誘いを受けた時、正直、強く魅了されたよ・・・。ご存知の通り、形而上生物学というのは、科学界では少々「キワモノ」扱いでね。そんな分野に身を置いてる自分に、これほどの大役が回ってこようとは、などと、少なからず胸がおどったものだ」

未知なる生命体の襲来から、人類を救う。

人工的な進化によって、人類を新たな段階へと進ませる。

自分が、そのための力になれるというのなら・・・。

だが、次の瞬間、コウゾウはわずかに目を細めた。

「それでも・・・、俺は返事が出来なかった。考えさせてくれとだけ答えて、その場をあとにした」

「・・・」

「俺は、彼の言葉に疑念をぬぐえなかったのだ」

「あの人が、嘘を言っていると・・・?」

複雑な思いに、表情を曇らせるユイ。

これは、ユイ自身、長く心の奥に秘めていた懸念であった。

ゲンドウが、ゼーレとの接点を得るため、自分に近づいたのだと知っている。

今はそれだけではない、と思いたい。

だが、ユイは確かめる事を避けていた。

今はもう、知ってしまったから。

ゲンドウとの生活、息子シンジとの生活、その幸福を。

いけないと知りつつ、失いたくないという思いが、これまで彼の深層から目を逸らさせていた。

だけど・・・、

もしも、あの人が・・・。

「いや・・・」

コウゾウは、首を横に振った。

「確かに、最初は俺もそう思った。仲間へと引き入れるために、俺を欺いてるんじゃないかと。しかし、一方で、その考えは正確じゃないように思えてならなかった」

「・・・」

「そう思った理由は、彼に対して覚えた、言いようのない違和感だった。なによりひっかかってたのは、それだ」

ユイから最初に相談を受けた時、コウゾウがこの話をしなかったのは、違和感の正体がわからぬ状況で、あいまいな私見など言いたくなかったからだ。

そして、それは、ユイを気遣ったものでもあった。

もしも、ゲンドウが本気で「計画」の遂行を望んでいるのであれば。

ゲンドウの中に、ユイを想う気持ちが確かにあるというのなら。

そう願いつつも、しかし、懸念が残る。

大学時代に耳にしていた、噂。

あの男が、本当に、ゼーレへと近づくためだけに彼女を利用したのだとしたら。

「計画」も、自分をおびき寄せるための餌として、口にしただけなのだとしたら。

自分がする話によって、ゲンドウを想うユイの気持ちに実体のない期待を抱かせ、そののち、深い絶望へと突き落とす事になるかもしれない。

これでは、あまりに残酷ではないか。

そう思うと、これまで、どうしても言う事が出来なかった。

だが、今なら言える。

違和感の正体が、今ならわかる。

「きっと、彼は迷ってるんだと思う。彼自身気づいてなかったようだが、彼の中には迷いがある」

「どういう事ですか?」

「考えてもみたまえ。君は、ゲンドウがやすやすと嘘を見抜かれるような、そんな間抜けな男だと思うかい?」

「え・・・」

「言うまでもないが、俺は彼を、君ほど深く知ってるわけじゃない。なのに、そんな俺でも「なにかがおかしい」とすぐに気づいた」

「・・・」

「そして、その時覚えた違和感の正体が、ゼーレの真の目的が実在すると明らかになって、彼が嘘をついた事が間違いないとわかって、前よりもずっと鮮明になった」

コウゾウは、あの日の様子を振り返ると、ユイに告げる。

「彼は、ゼーレのものとは異なる「計画」を、ゼーレの「計画」として語った。真の目的には一切触れずに」

「・・・」

「考えてみれば奇妙な話だ。なぜ明かさなかったんだろう、そうは思わないかね?」

「ええ・・・」

「俺を仲間に引き入れたいのであれば、真の目的を明らかにした上で、それを阻止するために協力してくれと言う方が、より確実なはずだ。セカンドインパクトの件で、ゼーレに不信感を抱いてる男に対してはね」

「・・・」

「もしかしたら、監視の目が光ってるのを警戒して、あの場では本当の事が言えなかったのかもしれない。だが、それなら、後日再び会った時にでも話せばいい。なのに、彼はそうしなかった。あの日からずっと、今日まで彼からの連絡はない」

「・・・」

「なぜ、ゼーレの真の目的を明かさず、ゼーレのものとして「計画」を語ったのか」

「・・・」

「それは、今はまだ、彼自身の中に迷いがあるからだ。ゼーレに従うべきか、それとも、反発すべきか」

「どうして、そうお感じになるんです?」

尋ねるユイに対し、コウゾウは、ひと呼吸置いてから話し始めた。

「彼に対して覚えた違和感の正体、それは「驚き」だった」

「・・・」

「事前の連絡もなしに尋ねたのだから、あらかじめ嘘を用意してたわけでもないだろう。だが、それでも、即座にあれだけの内容を組み立てるなど、あの男なら造作もないはずだ。なにより、ゼーレの目的を隠すにせよ、自身の計画に利用するにせよ、俺に協力させようと嘘をつく事に、動揺も躊躇も、彼の中に生じるとは到底考えられない」

「・・・」

「だが、あの時の彼は、内心驚いてる様子だった。もちろん、あからさまな動揺を見せたりはしなかったが、今にして思えば、声の調子や動作の端々に、かすかだが確かに表われてた」

「・・・」

「それは、彼自身、自分の口から出た「計画」が思いもよらないものだったからだろう。もしかすると、寸前までは「使徒の殲滅」だけを明かすつもりだったかもしれない。それだけでも理由としては充分だしね。だが、意図せずして「計画」が口から発せられ、その事に、彼は驚きを隠し切れなかったのだ」

「・・・」

「人類を救うための「計画」・・・。それは、彼自身、気づかぬ内に、胸の奥へとしまってあったもの・・・」

「・・・」

「君やシンジ君と過ごした日々の中で、彼の心に生まれたものだ」

話しながら、コウゾウは考えていた。

ゲンドウの心に生まれたもの。

いや、それは違うのだろう。

彼の中に、元からあったものなのだ。

数年の時を経て、ようやく思い至る。

大学当時のゲンドウは、ユイやコウゾウの考えに否定的であった。

人間というものに対する嫌悪が、事あるごとに顔を出した。

当然、ユイもコウゾウも、議論においては負けじと反論を繰り返していた。

ゲンドウにしたところで、二人の考えを変えようなどという気持ちはなかっただろう。

人というものを信じていない男。

にもかかわらず、彼は、議論を途中で打ち切ろうとした事も、議論自体を拒否しようとした事も、一度としてなかった。

ユイは、あの頃から気づいていたのだ。

だから、彼女だけが彼を愛した。

そして、彼を救えるのも・・・。

「などと知った風に言ってはいるが、正直、自信はないよ。繰り返すけど、俺はあの男をそこまで深くは知らないからね」

「・・・」

「だから、これ以上、なにも言えない。ここから先は」

「ええ・・・、私がすべき事ですものね」

「うん、そうだな・・・。だが、これだけは言わせてくれ」

「はい?」

「君の選択は間違っていない。君があの男を選んだ事も、俺は、間違っていないと思うよ」

「・・・ありがとうございます、冬月先生・・・」

 

 


 

 

「それじゃ、気をつけて帰ってね」

「うん、本当に、色々とありがとう」

「なに言ってるの、お互い様よ。それに、こっちはイイものもらっちゃったしね」

「一応言っとくけど、チップとOS以外は、すぐに廃棄してね?」

「わかってるわ、もちろん」

「うん、お願い。じゃあ、私行くわ」

「じゃあ、またね」

「帰ったら、すぐに連絡するから。・・・あ、そうだ」

「ん?」

「ね、あの時言ってた事だけど」

「あの時?」

「「note」は道しるべって、どういう意味?」

「ん? ああ、あれね。なんとなくそう思ったってだけだけど、「note」って、私達になにかをさせようとしてるんじゃないような気がするの」

「どういう事?」

「つまりね、「note」は導くためのものじゃなくて、ただ、示すためのものなんじゃないかってね、そう思うのよ」

「示された場所へ進むかどうかは、感じ取った者に任されてると?」

「そうよ、だって、あまりにも漠然としてて、あまりにも微弱なんだもの。やる気あんのかってくらいに」

「こっちが注意してないと、あっけなく消えちゃいそうなくらいにね」

「そうそう、きっと、自ら選んで、自ら歩んだ者だけが、先へと進んでいけるんだわ」

「それって、あなたの直感?」

「まあね、だから、あなたはあなたのやり方で答えを見つけるといいわ。いつも通りに」

「考えて、確かめる」

「そういう事。あなたの答えが見つかったら教えて。私のと同じ結論だったら、嬉しいわ」

「うん、ありがとう、キョウコ」

 

 


 

 

本当に不器用な奴だ、と、コウゾウは目の前の男に対して思った。

もう何時間もこうしている。

机に座り、身動きもせず。

なのに、

こんな時でさえも、涙を流す事すら出来ないとは。

(しかし、それは俺も同じか・・・)

「碇・・・」

コウゾウは、緩慢な動作で椅子から立ち上がると、男の名を呼んだ。

彼の息子は、今は医務室のベッドで横になっている。

見知らぬ天井の下でも、鎮静剤を投与してあるから、ぐっすりと眠っているだろう。

あの子は、目を覚ました時、母がいない事をどう思うのだろうか。

嫌な夢を見た、とでも。

夢であれば、どれだけ良かっただろうか。

しかし、これは現実なのだ。

起きたのは、全て、消しようもない事実。

そして、現実は、これから先も続いていく。

だから、

「碇・・・、お前には、まだ出来る事があるんじゃないのか?」

コウゾウは、それだけを言って、部屋を出た。

今の自分がしてやれるのは、この程度だ。

あとは、彼自身が決める事。

それでも、コウゾウには確信に近いものがあった。

あの男は、わかっている。

自分がなすべきは、なんなのかを。

そして、ひたすらに実行する。

あの男と自分の違いは、そこにあるのだ、と。

大学に助教授として在籍していた頃、コウゾウにもゼーレからの誘いがあった。

しかし、彼は断った。

組織に入るまで仕事の詳細は教えられないと言われ、その居丈高な態度を不快に思ったのも理由の1つだ。

だが、最も大きな理由は、新たな環境への期待がありながらも、不確かな未来のために現在の生活を変える事へのためらいがあったからだ。

生命の変化を研究するものが変化を恐れるとは、笑わせる。

そんな自嘲にも似た思いを胸に、あきらめの日々を送っていたコウゾウは、ある日、ユイとゲンドウに出会う。

二人は、どこか似ていた。

その行動力。

その揺るぎなさが。

コウゾウがセカンドインパクトの真相を探ろうと動いた動機にしても、正義感からというのはもちろんだが、二人への対抗意識が根底にあった事は否定出来ない。

「ふっ・・・」

思わず、顔に笑みが浮かぶ。

ゲンドウが自分をゼーレへと誘った時、コウゾウは、人生の皮肉というものを感じた。

まったく、嫌な男だ。

この男は、常に俺を後ろから追い越していく。

そして、並ぶように、彼女が。

「うらやましいよ、君達が・・・」

しかし、これで終わるつもりはない。

俺にも、まだやれる事があるのなら。

俺は、それをやるまでだ。

 

 


 

 

コウゾウの病院から車を走らせ、夜遅くに自宅マンションへ着いた。

ベビーシッターは、もうとっくに帰っている時間。

シンジも、ベッドで穏やかな眠りについているだろう。

地下駐車場に車をとめても、ユイは、そのまましばらく、物思いにふけっていた。

思考というより、ただ、流れに身を任せている。

様々な思いが、浮かんでは消え、消えては浮かぶ。

石板から受け取った情報。

ゼーレの真の目的。

世界。

人類。

この地球に生きる、たくさんの人達。

未来。

ゲンドウ・・・。

シンジ・・・。

ユイは車から降りると、場内のエレベーターには乗らず、出入り口から外へと出た。

熱い空気が全身を包む。

セカンドインパクトの影響で地軸がずれ、日本は常夏の気候となった。

そして、それ以外にも。

「・・・」

見上げる空。

電力の使用が制限される中、最低限の明かりしか使えなくなった結果、以前よりも数多くの星を目にとらえられるようになった。

これはどういう事なのだろう、とユイは思う。

人間の知恵が生み出した「光」が、宇宙の「光」を遠ざけた

人は、自身が生み出した「偽りのエデン」の中に、自ら閉じこもったという事なのだろうか。

まるで、今の生活を失いたくないと思うあまり、彼の光を確かめようとしなかった私のように。

けれど、人間の知恵こそが、宇宙へと飛び出す事を可能にもするのだ。

人類の選択。

私達がすべき選択。

あそこには、答えがあるのだろうか。

「結局・・・、それしかないんだわ・・・」

心に浮かぶ、キョウコからの言葉、コウゾウからの言葉。

二人に支えられ、ユイは迷いを振り払う。

全ては、動いてみなければ始まらない。

そう、これこそが全て。

こちらから手を伸ばさなければ、前に進めはしない。

進まなければ、大切なものを守れない。

たとえ、あの人に私への気持ちがないのだとしても、それでも、私のあの人への想いは変えようがない。

そして、シンジ。

大切な、私達の息子。

二人を愛してる。

愛してる。

心からの想い。

この想いは、私だけのもの。

「note」なんて関係ない、これだけは、まぎれもなく私自身の意志だ。

「・・・」

見上げるユイの目に、無数の星々が映っている。

空が、心なしか近づいているように思える。

広大なる宇宙。

広大なる世界。

けれど、

(まだ、遠い・・・)

あの場所までは。

自分が行くと決めた、あの場所までは。

(だから・・・)

ユイは、夜空に向けて手をかざした。

さらなる彼方へと向けて。

こうして、手を伸ばし続けてさえいれば、きっと・・・。

 

 


 

 

「冬月、今日から新たな計画を推奨する。キール議長には提唱済みだ」

「まさか、あれを!?」

「そうだ、かつて誰もが成し得なかった神への道・・・、「人類補完計画」だよ」

 

 


 

 

静かに繰り返される波の音を、ユイは聞いていた。

満天の星空の下、海岸に膝を突いている、エヴァ初号機。

コアの中であっても、感覚を広げれば、潮風が吹いている事は感じられる。

ただ、

“ いい気持ち・・・、とはいかないか ”

肉体という感覚器官を持たない以上、それは、単に現象としてとらえているに過ぎない。

魂だけの存在でも、感じられるものがある。

魂だけの存在だからこそ、感じられるものがある。

だが、魂だけでは、限界もある。

だからこそ、賢者の石が必要なのだ。

“ もうすぐね、ゲンドウ・・・ ”

今は深い眠りについている、夫へ向けて語りかける。

“ とても長い時間がかかったけど、もうすぐ始まる、もうすぐ叶うわ。私達の願い、そして・・・ ”

ユイは夜空を見上げる。

すると、

“ あっ ”

街の方角から、光が見えた。

夜空に散らばる星々の中にあって、ひときわ大きな光。

“ 帰ってきたわ ”

ユイの視線の先には、「光の衣」を輝かせながら近づいてくる、弐号機の姿があった。

“ 楽しいお食事だったみたいね ”

ユイの心が、喜びで満たされる。

弐号機の発する光。

内なる者の心を反映する、「光の衣」。

その輝きが、ここを発つ前とは幾分異なっていた。

単に光の強さが、というのではない。

深まりとでも呼ぶべきものが。

「ただいま、母さん」

繋がった感覚を通して、ユイの中にシンジの声が響く。

“ おかえりなさい、シンジ ”

伝えながら、ユイは深い感慨を抱いていた。

息子に「おかえりなさい」と言うのは、これが初めてではないか。

初号機に取り込まれた頃、シンジはまだ3歳になったばかりだった。

しかし、今はもう、自身の力で立ち、前へ進もうとしている。

そして、それは、人類の行く末と重なるのだ。

光が近づくに連れて、弐号機の姿が確かになる。

「光の衣」も、より深さを、強さを増していく。

その輝きを受け止めながら、ユイは、思いを新たにつぶやいた。

“ さあ・・・、いよいよね・・・ ”

 

 

「The Hermit」 第7話 終わり

 


 

後書き

 

さて、今年2016年は年です。
で、「
」には「伸ばす」の意味があります(今回これだけ)。
まあ、なんつうか、「シン」って事で。

ボイジャー計画がスタートし、ユイが誕生した、西暦1977年。
この年にアメリカで公開されたのが、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画「未知との遭遇」です。
未確認飛行物体を目撃した人達の脳裏に、あるイメージが浮かぶようになる。
イメージは、ワイオミング州にそびえ立つ「デビルズタワー」という山を示しており、その事を知った人達は、我知らぬ衝動に駆られて山を目指す、というお話。
てなわけで、ユイ(おまけでゲンドウも)が、主人公のロイ・ニアリー。
そして、冬月先生が、ロイを宇宙へと送り出す、クロード・ラコーム博士って感じになります。
ちなみに、冬月先生がラストで言う「うらやましい」は、ラコーム博士がロイに向けた言葉でもあります。

さて、
ユイとキョウコの「瞬間、心重ねて」な作戦ですが、
これのカウントダウンの元ネタは、ドラマ「刑事コロンボ」の「秒読みの殺人」から(あっちもエレベーターが出てくる)。
ちなみに、スピルバーグ監督は「コロンボ」でも「構想の死角」というエピソードを手がけていて、しかも、「愛情の計算」というエピソードでは、登場する天才少年に「スティーヴン・スぺルバーグ」という1文字違いな名前がつけられています。
これでスピルバーグ監督が申年生まれなら「よっしゃ〜!」なのに、残念ながら1946年生まれの戌年。
ラコーム博士を演じたフランソワ・トリュフォー(この人も映画監督)は1932年生まれで申年なんですけど、ここまでくると強引過ぎるし(なにを今更)。

次に、
キョウコがメールに書いた、
“ May The Note Be With You. (「note」と共にあらん事を) ”
は、こちらも77年にアメリカで公開された、ジョージ・ルーカス監督の映画「スターウォーズ エピソードW」からのアレンジ。
ちなみに、「スターウォーズ」は、スイスの精神医学者カール・グスタフ・ユングの「集合的無意識(における元型)」をもとにキャラクター造形や設定が考えられているそうです。
あ、ルーカス監督は!?
おおっ、1944年生まれの申年っ!!
だからなんだって話だけど・・・。

最後に、
中学時代のユイが友達と買い物に出かけた百貨店「ioio」は、TV版第15話「嘘と沈黙」で、帰宅したミサトが持っていた買い物袋に描いてあったロゴから(なんて読むかはわかんない)。

 


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