「えーっ、お弁当持ってきてないの!?」
「き、昨日は、宿題で作るヒマなかったんだよ」
「だからって、この私にお昼なしで過ごせってーの、あんたは!?」
「なんや、また夫婦ゲンカかいな?」
−間&赤−
「「違う(わ)よ!」」
と、このあたりは、テレビ版『新世紀エヴァンゲリオン』の『第拾七話 四人目の適格者』と同じ展開なのである。
シンジは、宿題が忙しかったせいで、弁当を用意する事が出来ず、アスカは、毎度おなじみのように、シンジを怒鳴っていた。
そして、からかい所は逃さないトウジの一言に、しばしの沈黙の後、顔を真っ赤にしながらも、ふたりは声をそろえて叫んだ。
だが、しかし、
ここからは展開を異にする。
テレビでは、ここで場面が変わって、ミサトとリツコが穏やかじゃない話をし、トウジがドエライ目に遭ったりするのだが、こちらではそんな事にはならない。
「だ、だれがシンジと夫婦だってのよ! ふざけんじゃないわよ、まったく!」
「ぼ、僕だって冗談じゃないよ!」
「はっ、ハハハハハ〜っだ!」
「なんだよ! その馬鹿にしたような笑いは!?」
「バカにしてんのよ! バッカみたい!」
と、アスカとシンジがふたりして、真っ赤な顔で言い合っている。
「ふんっ、私のお弁当忘れといて、なによその偉そうな態度は!」
「偉そうなのはアスカの方じゃないか! いつもいつも!」
「私はいいのよ! 偉いんだから! あんたなんかより、ずっと優秀なの! ず〜〜〜っと! ず〜〜〜〜〜っと!!」
声高らかにあざけり倒しのアスカ。
「ちょ、ちょっとアスカ・・・」
さすがに、ヒカリが止めに入る。
「まあまあ、センセ、夫婦ゲンカは家に帰ってからにしぃな」
一方、そんなヒカリの気苦労もお構いなしに、トウジが火に油を注ぐ。
燃料を投下され、ますます顔から火のシンジ。
「だ、だからっ! 違うって言ってるだろ!?」
そして、次の瞬間、シンジは両手を振り上げ、力いっぱい、机へと叩きつけた。
バンッ!!
「僕は、アスカなんか嫌いだっ!」
「アスカなんて、幼稚で、礼儀知らずで、気分屋で!」
「甘い顔すりゃつけあがるし、放ったらかすと悪のりするし!」
「だいたい、なんで僕がアスカの弁当まで作らなきゃなんないのさ!」
「僕に任せっきりで、自分じゃ全然作ろうとしないで!」
「僕が何してやったって、お礼なんか、一度も言った事ないくせに!」
「だったらいいよ! それならそれで結構だ!」
ドーン!!
『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:破』公開記念SS PartU
ASUKA&SHINJI
「破裂 −burst−」
「ねえ、アスカ、ほんとにいいの?」
前を歩くアスカを追いながら、ヒカリは言った。
「いいの!」
投げるように言い、アスカは足早に歩を進めた。
アスカとヒカリ、二人で帰る放課後の道。
学校が、どんどん遠ざかっていく。
「知らないわよ、あんなヤツ!」
「でも・・・」
わき目もふらずに進むアスカ。
ヒカリの方は、後ろ髪を引かれる思いで、何度も学校を振り返る。
「ねえ・・・」
アスカへと向き直すと、すでに相手は遠くにおり、ヒカリは小走りで追いかける。
さっきから、この繰り返し。
結局、引き止めの言葉はフェードアウト。
これ以上言っても、かえってムキになるばかりだ。
(強情なんだから・・・)
ヒカリはため息をつくと、最後にもう一度だけ、振り返った。
「碇君・・・、気がついたかな・・・」
「お、気ぃついたか、シンジ」
シンジが目を覚ますと、すぐそばには、トウジとケンスケの顔があった。
そして、二人の向こうに、天井が見える。
わずかに時を要し、ようやく、シンジは、自分が保健室のベッドに寝ている事に気づいた。
「おい、大丈夫か、シンジ?」
「シンジ?」
顔を覗き込むようにしながら、ケンスケとトウジがシンジに呼びかける。
「僕、どうして・・・」
体を起こすと、頭がふらつく。
熱さを感じて触れてみると、左の頬がひどく痛む。
「お前、惣流にぶん殴られて、気絶したんだよ」
濡らしたタオルをシンジに手渡しながら、ケンスケが答えた。
「え? ・・・ああ、そうか・・・」
タオルを頬に当てると、冷たい刺激が記憶を呼び覚ます。
ドーン!!
ほんの一瞬の出来事だったが、いやというほど鮮明に甦ってくる。
まるで閃光のような衝撃。
「いたた・・・」
思わず、シンジは顔をしかめた。
「ほんま、大丈夫か?」
「・・・大丈夫・・・」
とは言うが、ちっとも大丈夫そうではない。
「ムリないわ、あんなパンチ食ろうたんやからな」
その痕跡が、シンジの頬に、あざとして、くっきりと残っている。
トウジの伝えるところによれば、元世界ウェルター級チャンピオン、キッド・マッコイより直々に伝授されたかのような、見事なコークスクリュー・ブローであったという。
シンジは、倒れる寸前の光景と倒れた最中の光景に、思わず身震いした。
「なんか、光でいっぱいの所に立ってたんだ・・・。それで、川が流れてたんだけど、その向こうで何人かの人が僕に手招きしてて・・・」
「そうか、危ないとこやったな」
「うん、危なかった」
「まあ、もうしばらく休んどいた方がいいよ。どうせ、あとは帰るだけだし」
ケンスケは、そばにあった椅子に座り、カバンからUN重戦闘機のプラモデルを取り出すと、あちこちいじくりながらシンジに言った。
「少しでも回復しとかないと、帰ってからキツイぜ?」
「え?」
「惣流、かなり怒ってたからな」
「そりゃあ怒るわよ! 当たり前じゃない、あんな事言われたんだから!」
「でも、あの碇君があんなに言うなんて、よっぽどだと思わない?」
「ふん、シンジのクセに、なによ、この私に対してあの暴言は!」
「だから、それだけうっぷんが溜まってたって事なんじゃないの?」
すでに学校を遠くにしながらも、アスカはまだブツブツ言っていた。
聞かされるヒカリは、もちろんたまったものではないし、アスカにしたところで、言えばスッキリするという訳でもあるまい。
ただひたすらに、不健康な時間が流れていく。
「ああ、気分悪い! なんか胸がムカムカする!」
「それは、お昼食べてないからよ」
結局の昼抜きが不機嫌に拍車をかけているアスカなのだが、あの時、ヒカリの申し出を受けていれば、まだつらさもマシだったろう。
「だから、私のお弁当、半分こしようって言ったのに」
「いいの、だって、悪いもん」
(そういう気遣いを、どうして碇君にはしてあげられないかな・・・)
とは思いながらも、あえて言わずにいる。
「シンジのヤツ、もう、ほんとに許さないんだから!」
(アスカったら・・・)
ヒカリにはわかっていた。
文句を続けるアスカ。
しかし、乱暴な口調に、ほんのわずか、ため息が混じっている。
力任せに進む彼女の、時折、足が勢いを失う。
(ほんと、強情なんだから・・・)
ヒカリにはわかっている。
けれど、まだ、アスカから打ち明けてもらった訳ではない。
態度の端々にあらわれている気持ちを、ひとつひとつ、ヒカリは拾い集めているに過ぎない。
まだ、アスカ自身、素直に認める事が出来ずにいるのだろう。
だからこそ、ヒカリはじれったい思いに駆られる。
自分の事を棚に上げて、と言われてしまうのがオチだろうから、深く追求はしないのだが、それでも、何か出来ないかと考えてしまう。
「ああ、もう、ムシャクシャする!」
アスカは勢いをつけて振り返ると、ヒカリに言った。
「ね、これからウサ晴らしにゲーセン行かない?」
「校則違反よ」
「いいじゃない、カタい事言いっこなしよ」
「私、お金持ってきてないもの」
「ご心配なく、私がおごってあげるから。長々と文句につきあわせちゃったからね」
「う〜ん・・・、じゃあ、明日返すから」
「いいからいいから! じゃ、行こ!」
(まあ、今日ぐらいはいいか・・・)と、ヒカリは歩きかけたのだが、次の瞬間、その足がピタリと止まる。
「ちょっと!?」
「ん、なによ?」
「アスカ、お金持ってるの?」
「持ってるわよ、なんで?」
「だって、じゃあ、それでパン買えば良かったじゃない」
「え? あ・・・、そっか・・・」
「だって、「この私にお昼なしで過ごせってーの、あんたは!?」とか言ってたから、私、てっきり」
「そうよね・・・、うん、そうだわ・・・」
「気づかなかったの?」
「う、うん・・・、なんというか、その、うん・・・」
気まずい様子で顔をそらすアスカに、ヒカリは思わず苦笑する。
本当に気づかなかったのか、それとも。
どちらにしても、ヒカリにとっては、またひとつの収穫だった。
アスカは、ひとり呟いている。
「だけど、なんでだろう・・・?」
「だから、なんでやねん!」
「でも、僕が言い過ぎたのが悪いんだし」
「だからっちゅうて、コークスクリューはないやろ!? コークスクリューは!」
「うん、まあ、そうなんだけど」
「ヘタしたら廃人やぞ!? パジャマのボタンも、よぉはめられんようになって、「へい、ふぁいと、ふぁいとね〜」とか言うようになるとこやったんやぞ!?」
「なんだよ、それ?」
「おい、トウジ、ここ、保健室」
プラモデルをいじりながらのケンスケに注意され、トウジは少しばかり声のボリュームを下げる。
「せやけど、納得いかん。なんでシンジが謝らなあかんのや」
「あのねぇ、そもそもの原因はお前だってのに、これ以上焚きつけてどうすんの」
プラモデルから目を離し、横目でちらりとトウジを睨むケンスケ。
「いや、それは、もちろん、悪かった思ぅてはおるんやけども」
「いいじゃないか、シンジが謝りたいって言ってんだから」
「せやけどなぁ、こう、男としての、なんちゅうか・・・」
ブツブツ言っているトウジを放っておいて、ケンスケはシンジを見ながら言った。
「まあ、なんたって、相手は惣流だもんな。それに、ケンカがこじれたって、一緒に住んでるんだし、一緒にエヴァパイロットしてるんだし、顔を合わせないって訳にはいかないもんな」
「・・・う、うん・・・」
ケンスケの言葉にあいまいに頷きながら、シンジは複雑な表情を浮かべた。
悪いと思っている。
あんな事、言わなければ良かったと思っている。
本当に、心から。
だけど・・・。
「とにかくさ、早い内にさっさと謝っちゃえよ。ひたすら謝りゃ、惣流も許してくれるって」
「とにかく、碇君が謝ってきたら、ちゃんと許してあげなさいよ?」
そろそろ道を別れるという頃になり、ヒカリは、最後の念押しとして、アスカに言った。
「彼も反省してると思うから、ここはアスカが大人になってあげなきゃ」
「でも、あんな事言われたのに、許すだなんて・・・」
この時より前、ゲームセンターでしばらく遊んだ後、二人はそばにあるドーナツショップに入っている。
食べたのは、フレンチクルーラーの、アスカがストロベリークリームで、ヒカリがアップルジャム。
飲み物は、ヒカリがウーロン茶で、アスカがオレンジブロッサムのアイスハーブティー。
意図して選んだ訳でもないのだが、オレンジブロッサムには鎮静作用があり、気持ちを落ち着けたい場合などに用いられる。
空腹も和らぎ、それなりにハーブの効果もあったのだろうか、店を出て、しばらく歩く内に、アスカも幾分クールダウンの様子。
そこで、機を逃さず、ヒカリは根気良く説得を続けていたのだが、それでも、相手はアスカである、なかなかしつこい。
「だいたい、反省してるかどうかなんて、わかんないじゃない」
「してるわよ、きっと」
「なんで、わかんのよ?」
「だって、わかるもの」
そう言って、強く頷くヒカリ。
これは、ただの思い込みとは違う。
ヒカリはシンジの表情を見ていた。
怒鳴り終えて、アスカがパンチを繰り出すまでの、ほんのわずかな間。
その時浮かべた、悲しそうな、苦しそうな顔を、ヒカリは見逃さなかった。
「でも、あのバカ、ちゃんと謝りに来るかどうか」
「そりゃあ、アスカが恐い顔なんかしてたら、怖気づいちゃうかも知れないけど」
「ふん、小心者なんだから」
「だから、もう少し、表情とか態度とかを柔らかくして」
「なんで私がそこまで気を遣わなきゃなんないのよ。まったく、冗談じゃないわ」
(ああ、もう・・・)
ヒカリは胸の中でため息をついた。
どうして、こうまで意地を張るのか。
(アスカだって、ほんとは、許したいって思ってるんでしょ?)
「じゃあ、いいのね?」
「いいって、何が?」
「このままだと、碇君と、ずっとケンカしたままになっちゃうわよ?」
「い、いいわよ、別に・・・」
自分の事を棚上げしておいてなんだが、いい加減、やきもきさせられる。
だから、少しばかりのいじわる。
これくらいは許してもらおう。
「もう、碇君にお弁当、作ってもらえなくなっちゃうから。お弁当どころか、朝も夜も、ずうっとよ」
「べ、別に・・・」
「ああ、ケンカしてるんだから、おしゃべりとかも出来ないわよねぇ」
「う・・・」
「ひょっとしたら、碇君、愛想尽かして、マンション出て行っちゃうかも」
「・・・」
「それでもいいのね、アスカ?」
「・・・」
突然、ヒカリの視界からアスカが消えた。
「あれ?」
ヒカリが下を見てみると、アスカは道にしゃがみ込んでいた。
「・・・」
膝の上で組まれた両腕のせいで、表情は見えない。
それでも、ヒカリは小さく微笑んだ。
「そりゃあ・・・、もしも、シンジが心の底から悪いと思ってて・・・」
「うん、思ってる」
「そんでもって、シンジが、ものすごく、ものすご〜〜っく、本気で、真剣に、謝るっていうんなら、私だって・・・」
「うん、本気で真剣に謝るわよ、碇君なら」
「・・・」
「碇君が謝りに来たら、ね?」
「うん・・・、そうする・・・」
アスカがマンションに着いたのは、5時半を少し回った頃だった。
エレベーターで11階まで上がり、A−2号室の前。
わずかの間、立ち止まり、勢いをつけて、カードキーでドアを開ける。
中に入り、足元を見ると、シンジの靴がない。
まだ帰って来ていないのだ、と安心するも、すぐに不安がよぎる。
「夕ご飯の買い物にでも行ってんのかな」
それとも、
「まさか、まだ気絶してるんじゃ・・・」
振り切るように、アスカは足早に自分の部屋へ入り、すばやく戸を閉めた。
そのまま、机へとまっすぐ歩き、椅子に座る。
大きく息を吐きながら、机に顔を伏せる。
「・・・」
まだ、帰って来て欲しくない。
けれど、
早く、帰って来て欲しい。
相反する感情。
ジレンマに振り回される。
最近、ずっと、こんな思いばかりだ。
「・・・」
もう、認めてしまおうか。
こうなったら、認めてしまうしかないのだろうか。
シンジがアスカの弁当を用意するようになったのは、アスカがシンジに弁当を用意するように言ったからだ。
保護者であるミサトからは、昼食代として、ちゃんと月にいくらかのお金をもらっている。
当然、余分な負担の増加をシンジは拒否しようとしたのだが、アスカは色々な理由を並べ立て、彼を説き伏せた。
いわく、「購買のパンやコンビニ弁当ばっかじゃ、栄養が偏っちゃうじゃないの!」
いわく、「あんたがお弁当を作れば、余った分はお小遣いに回せるでしょ!?」
いわく、「あんたの料理の腕を上げるために、私のお弁当で練習させてあげるんだから、感謝しなさい!」
重ねて、重ねて。
けれど、一番大きな理由は、胸の奥深く。
隠していたのか、隠れていたのか。
「・・・あんたの作ったお弁当が食べたいからよ・・・」
今、ようやく、口にする。
こんな風に、全てを認めてしまえば、少しは楽になるのだろうか。
「・・・」
しかし、これまで経験した事のない感情なのだ。
過去に抱いた幾つかのものとは、似ているようで、まるで違う。
今はまだ、あまりに不確かで、鮮明な像を結ぶ事もない。
「私、シンジの事・・・」
「でも、そんな・・・」
「私が・・・?」
こんな曖昧な状態で、ヒカリに打ち明ける訳にはいかない。
いや、ヒカリは、もう知っているに違いない。
自分だけが、知らずにいる。
自分の事だというのに、知らずに。
優秀だなどと、いったい、誰が言ったのだろう。
「・・・」
顎を乗せた状態のまま、机の上で、右の人差し指をすべらせてみる。
Ich hasse dich
ドイツ語でなら、書ける。
Je te hais
フランス語でなら、書ける。
Ti odio
イタリア語でなら、書ける。
I hate you
英語でなら、書ける。
けれど、
「・・・」
日本語では、なぜか、書けない。
「はぁ・・・」
指を机から離し、椅子の背もたれに体を預ける。
アスカは情けない気持ちでいっぱいになった。
(私の指でさえ、私の知らない事を知ってる・・・)
部屋の外からは、まだ、音が届く気配すらない。
アスカは机から離れると、出入り口へと向かって歩き、戸に背をもたれかけて座った。
頭を戸につけて、目を閉じる。
「許してあげるから、早く帰って来なさいよ・・・」
シンジがマンションに着いたのは、あと数分で6時になろうという頃だった。
保健室でトウジやケンスケと話した後、あてもなく町をぶらついて、遅くなった。
エレベーターを前にして、一瞬、迷う。
乗っていこうか、それとも、階段にするか。
エレベーターは早過ぎる。
けれど、11階までは遠過ぎる。
これからのために、気力は残しておかなければならない。
中へと入り、『11』のボタンを押す。
『閉』のボタンは押さず、自動で閉じるに任せる。
静かな音を立てて、上へと動き出す。
閉じた空間の中で、保健室でケンスケが言った一言が、シンジの頭に響いていた。
−ケンカがこじれたって、一緒に住んでるんだし、一緒にエヴァパイロットしてるんだし、顔を合わせないって訳にはいかないもんな−
そう。
だから、ずっと、考えてきた。
ずっと、自分自身に言い聞かせてきた。
「謝ろう、ちゃんと」
エレベーターが止まり、ドアが開く。
11階、A−2号室の前。
わずかの間、立ち止まり、勢いをつけて、カードキーでドアを開ける。
中に入り、足元を見ると、アスカの靴。
きれいに並べて置かれてあるのを見て、あまり激しくは怒っていないようだと、わずかながらも安堵する。
(謝らなくちゃ、早く)
しかし、次の瞬間には、躊躇してしまう。
謝る事も、アスカに怒鳴られる事も、再び殴られる事も、すでに覚悟は出来ている。
ためらいの理由、それは別にある。
本当の恐れの源は、自分の中にある。
気持ちの爆発。
抑えられるか、いつも、自信がなかった。
それが、今日は、ついに、抑え切れなかった。
「・・・」
頬に触れれば、痛みが走る。
悪いと思っている。
あんな事、言わなければ良かったと思っている。
本当に、心から。
だけど、
だから、
否定する訳にはいかない。
「僕は・・・、アスカが嫌いだ・・・」
シンジは小さく呟くと、静かに靴を脱いだ。
玄関のドアが開いてから、足音が自分の部屋の前で止まるまでの間、アスカにとって、これほど時間が長く感じられた事はなかった。
無意識の内に、息を殺し、硬く身構える。
シンジからの、ノックの音を待ち侘びる。
待ち侘びているのだと、強く信じ込む。
(早くしなさいよ! 許してあげるんだから!)
そして、硬い音と共に、戸がわずかに震えた。
「っ!?」
感電したかのように立ち上がってから、アスカは強く唇を結ぶ。
(落ち着いて! 大人の余裕を見せてやるのよ!)
「な、なによっ!?」
決意の甲斐もなく、すぐにアスカは後悔した。
上ずった声で怒鳴ってしまった。
シンジが何も言わない内に、自分から戸を開けてしまった。
シンジの顔を見ないよう、下を向いてしまった。
しかし、シンジにとっては、これらが幸いした。
アスカの勢いに背中を押されるようにして、アスカの顔が見えない事に救われながら、シンジは口を開く。
「あ、あの・・・」
「・・・なに?」
「アスカ、さっきは、ごめん・・・」
「・・・」
「トウジが、あんな事言うもんだから、頭に血がのぼっちゃって・・・」
「それで・・・?」
つい、ぶっきらぼうな言い方になってしまい、アスカは頭の中で舌打ちする。
「う、うん、だから、思わず言い過ぎちゃったんだ。ひどい事言って、本当にごめん、僕が悪かった」
「ちゃんと反省してるんでしょうね?」
「うん、反省してる」
「心の底から?」
「うん、もちろん。あんな事、もう二度と言わないから」
「当然よ」
言いながら、アスカは頭の中で(大人に・・・、大人に・・・)と呪文のように唱えていた。
「それと、明日からは、ちゃんと弁当作るから」
頭しか見えないアスカを見つめ、シンジは切実な口調で訴える。
「だから、許してくれない、かな・・・」
「ふん」
ようやく、アスカは顔を上げた。
(しょうがないわね。けど、いいわ、許してあげるわよ)
そう言って、シンジを許そうとした。
「しょうがないわね。けど−」
そのまま、続けて言えば良かった。
「許す」とさえ言ってしまえば。
しかし、アスカの口からは言葉が出なかった。
「・・・」
「アスカ・・・?」
「・・・」
シンジの呼びかけに答えようともせず、アスカはじっと見つめていた。
目に入ってきた、左頬のあざ。
シンジに残る、自身の思いを。
「・・・」
机での事がフラッシュバックする。
書いた言葉。
書けなかった言葉。
書けなかった、指。
そして、胸に刺さっていたものの正体。
「・・・許さない・・・」
「え・・・」
「あんな事言っておいて・・・、許さない・・・」
苦しみが、胸の疼きに押し出される。
「だ、だから、あれはついカッとして−」
「言ったくせに!」
シンジの言葉を、叫びで遮る。
「私の事、嫌いって、言ったくせに!!」
シンジを殴った、右手の痛みが甦る。
いや、今まで、気づいていないだけだった。
右手も、
胸も、
ずっと、ずっと、痛かったのに。
「・・・嫌いって・・・、言った・・・」
「あ、あれは・・・」
そこから先を、シンジは口にする事が出来なかった。
アスカの言葉に、全身が硬直する。
「・・・何とか言いなさいよ・・・」
「・・・」
「言いなさいよ!」
叫びながら、アスカは苦しさにあえいでいた。
全てを認めてしまえば、少しは楽になるのだろうか。
そんな事はなかった。
ようやく、認める事が出来たというのに。
ようやく、わかったというのに。
それとも、もう、遅かったのだろうか。
「・・・」
シンジは沈黙を続けていた。
言えない。
言うしかない。
言えない。
シンジは、ただじっと、立ち尽くすしかなかった。
「なんでよ・・・」
今、少しでも動いたら、途端に、弾けてしまう。
目を閉じる事さえも出来ない。
閉じなければ、見えてしまうというのに。
アスカの、今にも泣きそうな顔が。
シンジは、力の限り、歯を食いしばった。
しかし、
「なんで・・・」
アスカの目に、涙がにじむ。
もう、抑えられない。
「僕は、アスカが嫌いだっ!!」
一瞬、全ての音が消え、アスカは、全てが止まってしまった。
激しかった息遣いも。
溢れそうになった涙も。
思考すら、止まってしまった。
そして、次の瞬間、
アスカは訳がわからなくなった。
アスカは、今、何がおきているのかわからなかった。
シンジは、自分を「嫌いだ」と言った。
「嫌いだ」と、確かに言った。
それでは、なぜ、
それなのに、なぜ、
シンジは、自分を抱きしめているのだろう。
なぜ、こんなにも強く、抱きしめているのだろう。
「アスカが嫌いだ・・・、大嫌いだ・・・」
アスカを両腕に抱きながら、シンジは繰り返し呟いていた。
「嫌いだって・・・、繰り返し思ってきた、ずっと・・・」
「・・・」
「そう思ってないと・・・、でも・・・」
その声は、とても悲しく、苦しく響き、アスカへと届いた。
「・・・シンジ・・・?」
アスカの中で、動き出す。
口が、シンジの名前を呼ぶ。
両手が、シンジのシャツを握りしめる。
「シンジ・・・」
名前を呼ばれ、シンジの中で、更に大きく沸き起こる。
「もう・・・、だめだ・・・」
ぶつけるように、シンジは、自分の唇をアスカの唇に押し当てた。
ただ、想いに駆られるまま、激しく、強く、シンジはアスカにキスをした。
「!?」
一瞬、大きく見開かれたアスカの目は、次の瞬間には、固く閉じられた。
夢なのだとしたら、目を開けていては、覚めてしまう。
現実なら、現実だと、はっきりするまでは。
もう少し、まだ少し。
時計の音が響いていく。
「・・・ごめん・・・、こんな事して・・・」
キスは現実だった。
慣れていないふたりのキスはぎこちなく、ままならない呼吸による激しい息苦しさを伴った。
思わず唇を離したシンジは、そのまま、苦しそうに囁く。
「本当は・・・、ずっと、こうしたかった・・・」
言葉とは裏腹に、アスカから体を離すシンジ。
「アスカ、ごめん・・・。僕は−」
「じゃあ、なんで・・・」
シンジの言葉を止め、シンジのシャツをつかんだまま、アスカは消え入りそうな声で言った。
「なんで、嫌いだなんて、言ったのよ・・・」
「・・・」
シンジは小さくため息をついた。
「・・・嫌いだって、そう思い込んでないと、本当の気持ちに負けてしまうから・・・」
「・・・」
「知られる訳にはいかない・・・。知られてしまって・・・、もしも・・・」
「・・・」
「それでも、今のままなら、顔を合わせない訳にはいかない・・・」
「・・・」
「どうしていいか、わからなくて・・・。だから、嫌いだ、って、無理矢理思い込もうとしたんだ・・・。それで、少しでも自分をごまかせないかって・・・」
「・・・」
「馬鹿だよ、僕は。そんな事くらいしか、思いつかなかった・・・」
「・・・」
「でも、それも、無駄だった・・・。本当の気持ちが、どんどん、大きくなっていって・・・、どんなにごまかそうとしても、結局、隠し切れなくなって・・・」
「・・・」
「結局、このざまだ」
そう言って、シンジは悲しげに目を伏せた。
アスカを傷つけてしまった。
傷つけたくなかった、傷つけてはいけなかった、それなのに。
自分の弱さが、彼女を苦しめた。
シンジは、最後の気力を振り絞って、アスカに言った。
「気が済むまで、いくらでも殴っていい・・・。もう、一緒に暮らせないっていうなら−」
「なに言ってんのよ・・・」
突然、アスカは右手でシンジの後頭部をつかむと、強く引いた。
シンジを殴った右手で、引き寄せる。
そして、力を込めて、アスカは唇を押し当てた。
シンジの左頬、そのあざが出来ている部分に、殴るようなキス。
「ア、アスカ・・・?」
驚くシンジの声に痛みが含まれているのを確かめてから、ようやく、アスカは唇を離した。
そして、大きく息を吸い、吐いてから、シンジを見つめる。
わずかに笑みを含む、悲しげな瞳で。
「・・・痛かったでしょ?」
「え、う、うん・・・」
困惑しているシンジに、アスカはかすれる声で言った。
「私も痛かった・・・。すごく、痛かった・・・」
「・・・」
「あんたからの、「嫌い」の言葉も・・・、今の言葉も・・・」
シンジは、アスカの言葉を聞きながら、両足に力を入れ、支えていた。
アスカは、足がわずかに震えていた。
またしゃがみ込んでしまうのではないかと、強くシンジをつかんでいた。
「もう、痛いのは、嫌よ・・・」
シンジの告白は、彼のみならずアスカをも、責めの刃で貫いていた。
アスカも、シンジと同じだった。
自分の気持ちに迷ったふたりは、弱さゆえに、苦しみ、苦しめてしまった。
もう、こんな思いはご免だ。
「だから、許さない・・・」
射抜くようにシンジを見つめ、アスカは言った。
「今度、私から離れるなんて言ったら、絶対、許さない・・・」
「・・・アスカ・・・」
沸き起こる想いに押され、シンジは、アスカへと体を寄せ、力強く抱きしめた。
今度は、アスカを安心させるために。
今度は、優しく、慈しむように。
本当の気持ちを、そのまま、素直に。
「・・・」
シンジの両腕が、胸が、頬が、アスカに触れる。
安らぎが、温もりが、アスカの全身を包み、心の奥深くへと伝わっていく。
「うん・・・、こっちの方が、ずっといい・・・」
アスカはシンジの胸に顔をうずめながら、吐息混じりに言った。
「まったく、シンジのクセに、この私に「嫌い」だなんて、生意気なんだから・・・」
足に力が戻ってくる。
おかげで、つかまるのではなく、シンジを抱きしめる事が出来る。
「さっきのキスだって、あんな力任せのなんて、最低よ・・・」
「うん、ごめん・・・」
シンジの声に、もう、苦しみはない。
もう、何も恐れるものはない。
アスカは切なげな微笑みを浮かべ、シンジを見つめて言った。
「それなら、今度は、本当の言葉と、本当のキスにして」
「うん・・・、アスカ、僕は・・・」
シンジは応えた。
アスカの望みと、自身の望みに。
ずっと声にしたかった、ずっと伝えたかった、本当の言葉と、本当のキスを。
緊張で、震えてしまう。
溢れる想いが、上手くまとまらない。
しかし、シンジは確信する。
大丈夫だ。
ちゃんと伝えられている。
アスカが見せる、これまでで最高に輝いた、弾けるような笑顔が、それを証明していた。
「破裂 −burst−」 終わり
後書き
『破』公開記念とか書いといて、映画とは何の関連性もないSSの第2弾です。
今回、『破』っぽいのはタイトルだけですが、
ここで、ちょっびっとだけ映画に絡んで。
burstっていったら、『破』のクライマックスで、弐号機がなんかモノスゴイ格好になってたけど、あの裏コードってヤツ、確か、「ザ・バースト」って言うんだよね?
それを言うなら、「ザ・ビースト」でんがな!<トウジ
ヒカリに言われて大人になろうとしたアスカでしたが、ラストで、ふたりが最後までいっちゃって、「アスカは別の意味で大人になりました」てなラストにしようかとも思いましたが、ブチ壊しなのでやめました。
それから、アスカが机に書いていた言葉ですが、実際には相当きついニュアンスになるようなので、たとえば英語の場合、hateでいこうかdislikeにしとこうか、ちょっと迷いました。
でも、対義語がloveになるので(dislikeは、もちろん、like)、結局、hateの方にしました。
無意識の内に、アスカはちゃんと選んでいた、って事でGO!です。